、だ」
「どんな方法がある?」
「一つある。しかし己には出来ない方法だ。同時に言ってならない方法だ」
「どうして言えない※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」と永井は殺気を含んだ充血した目をあげた。
「――女には出来る。男には出来ない」
「じゃ、わたしには出来ることなのね」と静子は酔いのめぐった、生理的な昂奮を抑え切れないで大きな声を出した。
「お前には出来ない。愛子さんなら出来る」こう言って尾沢は盃に溢れる熱い液をすすった。
「その話はもう止してもらおう。――ね、尾沢君、君はドストエフスキイを読みましたか」
「ドストエフスキイの何を?」
「全部を」
「君は己が外国語に自由な人間だと思っているのか」
「でも二、三、翻訳があるでしょう――」
「己は読まない。己はドストエフスキイという作家を知らない。知っていたら教えてくれたまえ」
「いやね、僕の同級《クラス》の奴から『カラマーゾフの兄弟』の英訳をかりてはじめて知って、それから英訳で及ぶ限り読んだのですがね――」
「ふん」
「『罪と罰』という作にス※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ドリガイロフという奴がいるんですね、そいつが或る女をピストルで脅しつけまでして自分のものにしようとしたのですが、どうしても出来なくなって、その相手の女の人格的威力と真情に征服されてですよ、一人とぼ/\練兵場へやって来るのです。そして番兵に遭うのです。(お前はどこへゆくか)と番兵が尋ねる。(アメリカへ)と答えて、その男はピストルをこめかみ[#「こめかみ」に傍点]にあてて、ばねを引いて倒れてしまう。――これはほんのエピソードにすぎないのですがね、僕は僕の読書力の範囲内で彼の作ほどに森厳な偉大な作を知らないのです。殊に彼の『カラマーゾフの兄弟』――」
「僕にも一度その本を見せてくれたまえ。ほんとに一生に一度は身も忘れるような書物にぶつかってみたいものだ。そうしてこの生きていることを忘れてしまいたいものだ。――静子!」
「何んですの」
「こっちへおいで!」
 すると永井は立ち上がって「尾沢、みんな呼ぼうじゃないか」と言った。
「みんなを呼んでくれ! 少し騒ごう。はじめてきいたドストエフスキイに敬意を表するために、せめて皆して飲もうじゃないか。それ程立派な作品を残した人なら、ね、静《し》いちゃん、随分苦しかったろうね! 己達のようなへぼ[#「へぼ」に傍点]でさえこうじゃないか!」
 永井は階下へ降りて行った。電話をかける音がしきりにした。二十分も経ってから永井があがって来た。
「山崎と小西と瀬村とが来るそうだよ!」
 宮岡は不快な表情を示した。彼はしめやかな物語を欲したために彼の愛読する作家の話をしはじめたのであった。それを尾沢達が喜ばない。のみならず、あの乱酔をはじめようとしている。たとえ両親を早く失って兄の手に育てられ、遠い北国の市街へ来ている彼にしても、まだ兄の手に養われる学生の身分として、中流以上の家庭の子弟としての宮岡と、尾沢達の間には極めて肝心なある世界が共通でなかった。尾沢にとってはたとえそれがロシヤの大作家であろうとも、今のさき話しつつあった命がけの話の只中にのさばり出ることは、許し難い神厳を犯す行為であらねばならなかった。耳に頭脳に尾沢達の話を聞きいれても魂の開かない宮岡には、永井や尾沢の現実的生活に対してもドストエフスキイの小説を味わうような態度にしか出られなかったのである。
「ドストエフスキイが泣いていらあ! 己の胸の中で泣いていらあ!」
 ひたすらに沈黙して僅かに生々しい焼肉を食っていた平一郎は尾沢の瞳に真珠のように小粒な涙滴を見ることが出来た。そのうちにあわただしい足音をさせて「おう寒い」と二重マントを片隅に脱ぎ捨てて髭を生やした三十五、六の壮年の知識階級の男がはいって来た。この男は市街で唯一の万年筆の問屋の主人で、無妻であった。このグループの機関雑誌『底潮』の経済的方面はこの男が負担しているだけ、平常は勤勉な商家の主人だが、こうして一群の中にはいると天真の彼は寂しいといって泣くのである。
「小西さん、よくいらっしたのね。熱いのがありましてよ」
「や、結構、結構、今夜は自殺したくて困っていたところでした。有難う。呼んでくれて有難う。おう、結構、結構――」
 そこへ山崎と瀬村がやって来た。山崎は熊本の男で二十七の一昨年帝大の理科を出た秀才だったが、嫌な結婚を強いられたために、自分の愛人をつれて、銀行の頭取である父の金をかなり多く携えてこの市街の伯父を訪ねて今年の春来たのであった。彼は新聞社の客員という風な資格で論説などを書いて生活を立てていた。彼の専攻であった星学に対する情熱は衰えはしなかったが、父が彼の意思から生じた結婚を許さないので、彼はその情熱を犠牲にして彼の愛人を護ることに努めてい
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