た。その一年ばかりの生活が彼を「大きな坊っちゃん」であることよりももっと深い生活を彼に知らしめていた。瀬村は二十五の工業学校の助教諭であった。彼は自分とはそう年の違わない生徒に粘土をいじくることを教えて、がっかり疲れた心身のやるせなさをこうしたグループに慰めていた。彼は一人の母を養うために自分の天才の成長を犠牲にしなくてはならない貧しい一人の青年であった。
「ロダンやミケルアンジェロやを思えば少しは心も安まろうという人もある。しかしあべこべです。安まるどころか威圧されて悲しくなって物も言う元気もなくなります。その日その日の生活さえ十分に果し得ない僕です――それにしても金が欲しい……」
 その瀬村とその山崎がはいって来た。
「御一緒に?」
「いいえ、今、そこのドアのところで会ったのです」
「山崎さん、瀬村さん、今夜は飲み明かしましょう。こんな寒い寂しい夜です。どうしてじっとしておられましょう。哲人とやらは超然とすましておれるそうです。そんな哲人はそれは大方木像でしょう。さ、飲み明かしましょう」
 静子が差し出す盃に豊潤な黄金色の液を注いだ。愛らしい桃割に結った少女が二人、一群の中にまじって酌をするのを忘れなかった。山崎が平一郎を見つけた。
「静子さん、この坊っちゃんは誰だあね」
「大河という方ですよ」
「大河? 中学へ出ているのじゃないかい。――ううん、それじゃこの間停学になったことがないかい。女学校の人に手紙をあげたというので」
「ええ、僕です、その大河です」彼は真面目に答えた。彼の頬も酔《アルコール》のために紅かった。
「君かね、あはははは、停学はいいね。――」と山崎はふと硝子戸の隙間から戸外に眼を注いだが、「星が流れた」と思わず叫んだ。
 一室に展かれたこの青年達のやるせない酒によって僅かに慰められる鬱した精神を夜は深々と抱いていた。黎明を知らない闇であった。この鬱屈した精神は果してこの市街のこの一団に限られたるものであろうか。つらなる大地のあらゆる生霊のうちに潜むやるせなさではなかろうか。それとも日本の有為なる青年にのみ特有な心情の苦悩であろうか。人類の生活上に重い負担の石を負わす資本家的勢力の専横な圧迫の社会的表現であろうか。もしそうなら下積みとなる幾多の苦しめる魂は、いつかは燃えたって全大地の上に憤怒の火は燃ゆるであろう。しかし、それは一つの原因であり得よう。しかしそれは唯一の原因ではあり得まい。何よりの原因は、自分達が自分達であることだ。無論「自分達は自分達であることの苦しみ」と「人為的な生活の圧迫」とは同一視できない。前者は不可抗なるものであり、後者はより善くするの望みはある。またよりよくしなくてはならない。どうにも出来ないのは宇宙苦だ。宇宙苦はありとあらゆる万物に滲み入っている。自分達は僅かにこの地上の人間的苦しみをさえ征服出来ずにいるのである。宇宙苦を知らないで人間を終わるものが大多数であるのだ。――平一郎はこの夜午前一時過ぎに家へ帰った。
 彼にとって尾沢のグループはもはや生活するに必要なものとなってしまった。とにかくその中に行けば生きた熱情、真の苦しみ、歓喜に接することが出来た。それは若き平一郎にとっての僅かの慰みであった。平一郎は少年期の傾注的な熱情と信愛をもって『底潮』の一団に交わったのである。お光は平一郎の急に多くなった外出、夜更《よふか》しに心配したけれど、彼女は急には平一郎にそれと注意しないだけの思慮を積んでいた。危険な峠が我が独り子の道にさしかかっているのを彼女は認めた。四十年の苦労が彼女をして急に盲目的に我が子の道に干渉することを控えしめていた。それは善いとも悪いとも言えなかった。生理的に熟しつつある平一郎の男性的目覚めがあの恐るべき放蕩と堕落に彼を導く暇のなかったのは確かに平一郎の幸福と言わねばならなかった。和歌子一人に集注され、和歌子一人に生活の意義をみいだしていた平一郎が、その生活の意義を奪われてしまった時に、彼を放蕩に堕落せしめなかったのは寧ろ奇蹟と言うべきかも知れない。彼の早くより営まれた内的精神生活が急激に伸びて、『底潮』のグループに内より湧く力の消費対象を見出したのは――放蕩に陥るよりはよいに相違はあるまい。その一すじな力の奔流を堰き止めることを控えたお光の心の悩みはまことに尊いものである。
 十七の正月が迎えられ、北国の街に厳冬は長く続いていた。平一郎は毎日の学校への出席を苦艱な労働のように耐えつつ、学校から帰ればすぐに尾沢の宅を訪ねるのであった。あのように進歩した女性のように、また時には淫奔な無恥の女のようにも、また時には世間の状態に通じた人間の心理に同情をもっている懐かしい年上の女人のように思われる静子は、東京の基督教の女学校の専修科を出て、この市街の大きな銀行の事務員を
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