ああ、苦しいのは自分ばかりではないのだ、と思うと彼は光が湧き出るような感激を覚えた。(ああ、これでこそ自分の生涯にも生き甲斐がある!)
「ほんとに愛子さんは妊娠しているのか」
「さあそれが、まだはっきり分らないのです」
「ほんとに君にも確信があるのかね」
「――」
 永井は答えなかった。彼は答えられなかったのだ。それは愛していればいるだけ、なお一層人間には知ることを許されていない恐ろしい神秘であった。尾沢も少し自分の質問を悔いたらしく沈黙した。
「だって、それは愛子さんには覚えのあることですわ。愛子さんがしっかりした確信さえあれば、永井さんのやや[#「やや」に傍点]さんがやどっているのに違いないわ」
「女にはそれが直覚できるものでしょうか」と永井は眼を輝かして静子を仰いだ。
「――でも、この方なら、この方の子なら孕んでもいい、孕んでくれる方がいいと思う心には、わたし、きっと感応があると思いますわ」
「そうでしょうか」永井は深い渦巻く淵を覗き込むような寂しい表情を現わした。尾沢はこうした厳かな時の流れに耐えられないように、大きく一つ唸った。永井は静子に与えられた仄《ほの》かな光を頼るように、
「あなたは今、孕んでいるかも知れないと仰しゃったんですね」と尋ねた。
「ええ。そんな気がしますの」
「それで、もし孕んでいるとしたら、何日、何夜のあの時だったろうという覚えはあるものですかね」
「それあ、何ともまだ言われませんけれど、無いこともありませんわ」
「はっきり言ってください。ありますか」
「ええ。ありますわ」
「そうですか」永井はまた眼を俯せた。このときさっきから帰ろうとしていた宮岡が、立ち上がろうとした。尾沢は「もう帰るのか」と言った。
「ええ、失敬します」
「試験もすんだんだし、急がなくてもいいだろう――今、これからすぐカッフェへ行くから、もう少し待っていて一緒に来たまえ」
「そうしようか」
「永井君」と尾沢は永井の背をたたいた。「あとにしたまえ。それよりか今夜はカッフェへ行って久しぶりで少し酔おうじゃないか。ね、そうしよう。自分の真情の要求に直進的に殉ずるか、それだけの勇気がなかったら一切の自力を捨ててなるようにまかすか、どっちかだと僕は思う。苦しみをなくしようとしたってそれあ駄目さ。寝るのが一番だね。寝ていたって夢で魘《うな》されることもあらあ」
「そうだ。そうしよう。今夜は飲もう。静子さんもおいでよ、ね。――大河君、大河君、君も来たまえ」
「ええ」と平一郎も立ち上がった。
 五人の群は戸外に出た。雪は降っていなかったが、黒藍の寒空に星が二つ三つ光っていた。高等学校の学生である宮岡は長いマントをかぶりながら、静かな夜更けを愛誦の歌を朗吟するのだった。
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頬につたふ涙のごはず一握の砂を示しゝ女《ひと》を忘れず
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「石川啄木! いいね、啄木は!」
「長らえようか永らえまいか――あはっはっはっ、ハムレットは馬鹿だね、己達がこうして生きているということが、とりもなおさず死の国からの便りじゃないかね。死の国から一人も帰ったものがないどころか、死の国からこうしてこの全世界が帰っているじゃないかね。あはははは、ハムレットはまだおめでたいものさ」
 色硝子の紫や紅や青や黄金色の硝子を透して輝く光彩が路上を染めていた。ドアを押して一群は室内に入った。
「いらっしゃいまし」と白いエプロンと後ろの赤い帯との対照の美しい給仕女がこの奇異な一群を迎えた。階下の食堂では、熱帯性植物の青い厚い葉蔭から、若い絵師の一群がマンドリンを掻き鳴らしている姿が覗かれた。
「二階へ行くよ。おい、二階のあの奥の方へ通してくれないか」尾沢は黒いソフトと黒いマントを脱いで階段を昇った。二階は日本風な座敷がこしらえてあった。
「永井! 日本酒か。色のある奴か」
「両方もらおう。――ううん、日本酒の熱い奴にしてくれ。おい、日本酒の熱いのに、うまい肉の生焼きをもって来い!」
「はい」と給仕女は下りて行った。掻き鳴らすマンドリンの春の小川の甘い囁きのようなメロデイが階下から響いて来た。それはあまりに五人にとっては別の世界の音楽であった。重苦しい厳粛な沈黙と絶え入るような絶叫の大交響楽が階上の一室に高らかに鳴り響いていた。新鮮な肉と芳醇な酒とが彼等の心肉を温めて来た。尾沢は酒を呷《あお》りつつ雄弁に語りはじめた。
「永井! 止せ止せ、くだらない心配は止せ! お前が愛子さんを連れて逃げたりしてどうするつもりだ。もっと善良な悪党になれ! ………………………………………………――そうじゃないか、先方の奴が人間としての存在さえなくなればそれでいいのじゃないか。蜜蜂だってうまく自然に他殺することを知っているからね。愛子さんさえそのつもりになれば
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