郎がまだ少年らしい中学生であることなどを知らないかのように「僕は宮岡と申します、どうぞ宜しく」と頭を下げた。商人らしい男は喫《の》みさしの紙巻を灰の中に埋めてから、「永井です、宜しく」と言った。平一郎は正坐して、こうして仲間入りをした人達の話に聴きとれようとした。
「――どうしても今のままに過ぎていることは僕としては出来ない事です。愛子にしたところで堪ったことではないだろうと思う。もし一日でも早く別れるなら別れる、一緒になるならなる、どっちかに決めてしまわなくちゃたまったことではありませんからね」
永井の呟きを宮岡があわただしそうに尋ねた。
「それで、愛子さんの両親はそれを知っているのですか」
「それは知っていまいと思います。少なくとも愛子の言葉を絶対的に信じての上ですけれどね、しかし僕としてはたとえ僕と愛子との仲が一生の間先方の男や愛子の両親に秘密とされていても、それがたとえ保証されても、僕の現在はそれに満足できなくなっています。僕は随分我儘かも知れません。こんなことを言える訳でないかも知れません。しかし僕は愛子を独占したくなったのです。この頃殆んど愛子に会わない日はないでしょう。毎日必ず会っていると言った方が正確でしょう。しかし会う度に僕は、この可愛い愛子が自分から離れてあの軽薄な奴に占有されるのかと思うとたまらなくなります。僕は会う度に愛子が彼奴《あいつ》の細君になりすましている時を妄想します。するともうがっかりしてしまいます。僕ははずかしい話だが、この頃会う度に愛子に『結婚はまだかい』と詰問して、愛子のあの瞳が示す答を見ようと焦る位になって来ています。随分と堪らないことです。まるで先方の両親か男が言うべきことを僕が言っているようでもあるけれど、しかし、これは僕の言うべき権利だと思います。向うの男は愛子を一種の奪掠手段で貧しい本当の親元から結婚の許しを得たにせよ、僕の方には真実の愛子を愛する心も愛子を想う心もあるわけです。僕に言わすれば僕こそ彼奴に奪われたものを取りかえそうとするのですからね。無論少しばかりの現金に目がくれて自分の娘をあんな道楽者に約束する両親も両親ですがね」
「それで君はどうしようとするのだ」と尾沢が言った。
「僕は愛子に今のうちに両親と男に己との間を打ち明けろと言ったのです。しかし愛子はもしもこんなことが男に知れればきっとあの人は父や母に金を返せと責めるだろうというのです。それじゃ僕がどこかへ連れて逃げようと言うと、愛子はきっと貴方は牢へ入れられると言います。誘拐罪とかでね」
「牢へはいる覚悟で連れて逃げたらどうです」と宮岡が言う。
「馬鹿な! 自分達にとっては罪悪という観念はないのだからね! 僕達がかりそめにも恐怖とか暗さを感じることがあるとしても、それは、先方が誤った観念からどういうことをしでかすかも知れないという先方の誤認する思想の程度を洞察してのことに過ぎないのです。僕達の方が正しいのです。先方の男が単に愛子の美貌を見て、悪辣な手段で体《てい》よく奪って行ったのが不当なのです。そして法律と世間はそのやり方が巧かったばかりにその不当をも正当と認めます。そんな法律にしたがって、好んで牢へはいることは運命への侮辱です。罰があたります」
「それじゃどうしようと言うのだ」
「僕達は手も足も出ないのです。しかし、僕達はどうしてこのままにおれましょう。――それに尾沢君、愛子は妊娠しているらしいのです!」
「あはっはっはっ。な、静いちゃん。お前も少し怪しいってんじゃなかったかい」
「そうですの。少し怪しいの。わたしがあなたの子を生むなんて、何だかおかしいじゃないの。あなたが父さんになったり、あたしが母さんになったりしてさ」
「あはっはっはっ、永井君、そう焦らない方がいいね。とにかく現在会えるのなら結構じゃないかと思うよ。知れないで愛子さんとの仲を続けられれば結構じゃないか。僕達は人間ですからね。僕達は地上の生物ですからね。碌なことのあろう筈がないじゃありませんかね。どうせ苦痛より外にない地上じゃないかね。逃げたかったら逃げてみるさね。万が一、北海道か満洲かでうまく君達二人の新しい生活がはじめられればそんないいことはないだろうし、捕えられたら捕えられたで、殺されるなり、牢へ入れられるなり、またはひょっとして天下晴れて一緒になれるなりどうとかなるのさ。――しかしそんな危い仕事よりも、誰も知らない間に出来るだけ上手に立ち廻っているのもいいことはいいと思うよ」
永井は苦笑して尾沢の言葉を聞いていた。
「君のように考えてしまえばそれまでの話だけれど――」
「しかし愛子さんも可哀そうね」と静子が言った。
「そうです、可哀そうです」と永井が言う。
一しきり一座の者は沈黙した。平一郎はわけもなしに、歓喜に襲われていた。
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