うと幾度も思ったことだった。彼はおずおず言い出した。
「大河君。今夜僕の家へ来ませんか。僕の知っている人の家を君に紹介しますから」
「何のために?」
「その人は僕、一年ばかりも前から交わっている人です。僕は君がその人達と仲よくすることが、君のために好《よ》くはないかと思っています――来てくれませんか。僕は悪いことは言わないつもりです」
「文学の仲間かい」
「そうですよ。学校などで想像されもしない程に自由な、いつも胸底深くに涙を湛えたような人達の群があるのです。僕はその人達によってどれ程苦しみを逃れたか知れません。大河君、今夜いらっしゃい。僕は案内します」
「君は僕に隠していたのだね」
「許してくれたまえ。僕にも一つの――一つの秘密はあったのです。しかしそれも今打ち明けてしまったのです。もう君には僕はその一つの秘密――も――もっていないというものです。ほんとに今夜来てくれたまえ」深井は能動的で熱情に恵まれていた。
「行くよ」
平一郎は答えて何故か涙が瞳に滲んで来るのを覚えた。ああ、意気地ない自分。愛する少年に苦しみを見抜かれ、救いを教えられる腑甲斐ない自分、と彼は思って泣いた。
細かい粉雪が絶えず降っていた。濁った灰色の空から無気味な無音の状態で白い粉がちら/\降るのである。湿った地面は絶えず白い雪片を吸収してその存在を消滅させたが、家々の屋根や軒や電信柱はすでに二、三寸の雪を積らせていた。北国のこの市街ではもう四度目の雪で、時折烈風が街中を吹き荒れて行くこともあった。平一郎と深井はマントの頭巾を目深に冠《か》ぶり、一本の傘を二人でさして人通りの絶えた暗い陰鬱な、生存ということが全然無価値なものだと想わすような夕暮の街を急ぎ足で歩いていた。二人は何も言葉を交わさなかった。時々顔を見合わした。深井は寂しい顔をして平一郎の未知の世界を仰望するような情熱を帯びた眼付をちら/\と横目で見た。深井は自分が今平一郎を誘惑する悪魔の役目をしているのではないかしらと疑ってみた。半年あまりの間の秘密を何故自分は打ち明けたのだろうか。しかし平一郎の寂しい一切の喜悦を失われたような顔を見てはそのまま打ち捨てて置くに忍びなかった。平一郎は、時折溜息をつく深井の生き生きした美しい顔色を見て、この愛する者が導いてゆく新しい世界を渇望の眼で仰ぐのであった。母と冬子と和歌子と深井との四人の愛する人達の魂のうちに長い間住んだ平一郎の魂はたま/\学校の教師に傷つけられ、更に和歌子を奪われて、傷つけられた痛手に呻きつつ何かを求めて止まないのである。お光、深井、行方の知れぬ和歌子、遠く東京に去った冬子。
「まだ大分あるのかい」
「いいえ、もう少し」古い士族町の土塀つづきの細い街に二人はしばらく立っていた。雪はしきりもなく降った。いかなる恐ろしい異変を潜めているか分らないような、世界滅却の予感のような、あわただしい静寂が空間に充ちていた。二人はまた歩き出した。士族町の土塀がつきると街は右の小路に折れた。貧しい歪んだようなあたりの人家にはもう赤い灯がついていた。二階建の、店先二間あまりに硝子戸をいれて「マニラ麻つなぎ、男女募集」と書いた紙を硝子に張った家だけはまだ灯がついていなかった。深井はその家の前で立ち止まった。
「ここの二階ですよ、大河君」
平一郎は黙って二階を見上げた。同じように硝子窓をいれた二階の窓は暗くてよくは分らないが、硝子越しに真紅《まっか》の窓掛《カーテン》が見える。
「はいろう」と平一郎は言った。
「尾沢さん! 尾沢さん!」深井の声が響いた。すると二階から「だあれ」という男の濁った返事がした。
「僕です、深井です」
「深井君か※[#疑問符感嘆符、1−8−77] はいりたまえ! 今、社(新聞社)の方から帰って寝転がったところだ。はいりたまえ!」
ぱっと二階に電燈が点《とも》された。窓硝子に真っ赤なカーテンが燃えるような真紅の色を染め出した。二人は横手の戸を開けて、暗い上り口の板張りから、すぐに二階へあがった。天井の低い薄汚ない二間を障子をはずしてぶっとおしてある。奥の方に机、書棚、火鉢、壁際に小さい西洋風の木の寝台、窓の真紅なカーテンに照りかえす電燈の赤光を浴びて、背の低い、額の広い、眼球が見えないくらい窪んだ眼、やせた頬、――の二十四、五の青年が厚ぼったい筒袖の綿入を着て坐っていた。
「今晩は」深井はその男の間近に坐った。平一郎は立って頭を下げた。
「だあれ?」その男は深井にたずねた。
「僕の親友の大河です。あなたに会ってみたいというので――」
「あ、そうですか。僕は尾沢です。つまらない奴です。どうぞこちらへ」
「ありがとう」平一郎は未だこういう風な青年に遭ったことがないので、暗い引き入れるような特有の感じを持つ青年をどう判断し、どう態度をきめ
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