てよいか分らないが、深井がようやく打ち明けてくれた一団の群の中心となる人間である以上、彼はやや遠慮勝ちに、礼儀深くした。恐らく何も知らずにこの尾沢に会ったなら軽蔑し去ったかも知れない程に彼の風采は貧相で、人生の裏通りにのみ特有な臭気と蔭がまつわりついていた。しかしこの場合平一郎にとっては熱望して来た異国の港であり、真紅のカーテンや壁際の木製の西洋風な寝台などが、尾沢の背景をなして悪い気はしなかった。尾沢は鋭い眼光で平一郎をじろ/\見た。正しく坐りこんで膝に手をおいている、そう大きくない、皮膚は黒い方で、唇を固く結んだ清く鋭い、燃えあがる炬火を時折覗かせる眼をもった少年、これが大河かと彼は思った。彼は急に機嫌がよくなった。
「試験はもうすみましたかね」
「今日すんだところです」深井が答えた。
「道理で長い間やって来ないと思っていたっけ――来年の正月号の『底潮』が昨日刷れて来ましたよ」後ろへ反りかえって書棚の下段に積み上げられた薄い雑誌を一つ掴みとって深井と平一郎の前に差し出し、にこ/\無意識的に人の好さそうに笑っていた。その笑いは決して強者のあの深い厚味があって不透明な笑いでなくて、弱者が、恐れていたことを恐れなくともよかったとき感じる安易さが生み出す笑いであった。平一郎は何となくくみし易い[#「くみし易い」に傍点]というような心安さを感じた。平一郎は雑誌の一枚一枚をめくってみた。深井の名が四号活字で組まれてあった時なぜか胸が躍った。
「よく刷れましたね」
「そんなもんですかな」尾沢は自嘲するように答えた。その答のうちには(どうでもなるようになるがいい!)というような寂しい投げやりな感傷が潜んでいた。
尾沢はやがて新しい雑誌をとりあげて無造作に頁を翻していたが、「今度は己、洗いざらしに自伝を書いたっけ。哀れな老いぼれた青年の手紙っていうのね、それだよ。読もうか? ――聞いていたまえ、読むから」尾沢は深井と平一郎を見比べるように、哀願と誇りを混濁させたような表情をして、「己という人間がどんな人間かは大体分るだろうと思う。聞いてくれたまえ、いいかい、読むよ」彼は読みはじめた。
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哀れな老いぼれた絶望した青年の手紙
静子、愛する静子、己はお前に自分の唇から今書こうとしていることを告白したかったのだが、己達はあまりに一緒にいると感激の火花を燃やし過ぎるようだ。己はお前と一緒にいるときはとても己自身の生涯の歴史を正直に静かに言えないことを幾度もの試みの後ようやく発見したわけだ。しかし己達の恋愛はもはや普通以上に深くなっていることも確実な事実と認めなくてはなるまい。いつ迄もこうして過ぎられる己達でもあるまいじゃないか。お前はどうかも知れない。己という人間が「思ったよりつまらない平凡な弱虫だったのね」とお前がいつだか言った言葉から推察しても、お前は己に愛想をつかしているかも知れない。愛想をつかされてもそれに不足を言えない己である位は承認しよう。お前はもっと強い悪党を要求していたか知れない。しかし静子、金を自分の懐へ集めることを知らない悪党もいそうもないじゃないか。己が悪党でないことは貧乏なことから考えれば一度で分ることじゃないかしら。金に眼をくれない大悪人――そんなものは随分稀にはいるかもしれないが、金が無さ過ぎるといかな大悪人もすっかりいい加減な馬鹿になるものさね。たとえ地球を爆破して人類を絶滅し、宇宙の運行に狂いを生ぜしめようと意志するほどの超人的大悪人でも金がなくては手も足も出ないで、やがて死んで行くより仕方のないものだ位はお前にも分ろう。大分黄金崇拝者じみたことを書いたね。誤解しないように、するならするでそれもよかろう。静子、己はお前にもう一度ラブレターを書くような心理状態になっているこのままで、少し書こう。己は越中の高岡の生まれだ。己は実の両親を知らない。どうして知らないか。嘘のようだがこうだ。ある豪商の一家を想像するがいい。そこに一人息子がいたのだ。年頃になって嫁を貰ったが子がないので暫くしてその嫁を離別してさらに若い嫁をめとったのだ。その時分はもうその主人の両親は死んでいない。若い嫁に一人の男の子が生まれた。その男の子が二つの春、主人は肺患で死んだのだ。若い嫁さんは二つの孤児を抱いて孤独の生涯を守るほどに貞節でも高邁の思想の所有者でも児に対する深い洞察を伴った愛をも感じていなかった。彼女は一人の男を婿入させた。先夫との間に出来た男の子が四つのとき、その嫁さんは父の異なった女の子を生んで、やがて翌年、先夫が残して行った肺患で死んだのだ。自分の児である嬰児と先夫と愛妻の子である男の子――己だ、四つの己を残された三十男の町人はどうして独りで生活出来るものかね。彼はさらに新しい嫁を迎えた。そして己は十歳
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