二人が、今日、通って来た迫害や苦しみの後に、自然に唇を求めることを知ってしまったとは! 恋愛は実に迫害によって深められる。はじめて知る愛人の唇の柔らかな触感、高く鳴る全身の動悸、火のような情熱。全世界の人間が二人の恋を否定しようとも、遂に恋する平一郎と和歌子であった。
「いつまでも!」
「ほんとにいつまでも!」
 行末を案じつつ独り子を待つ母のもとへかえる平一郎はまだよかった。和歌子は親しみの少ない継母《はは》と義理の妹達とが、彼女の失敗を牙を磨いて待っている恐ろしい荊棘《いばら》の床に帰らねばならなかった。和歌子は暗い街の十字街に立ち止まって家へ帰りたくなさに襲われていた。死が彼女の前に極めて間近な事実として現われた。「怕がっちゃだめですよ。僕だってじきに大きくなります――」平一郎の声が凛然と響いた。彼女は一切に堪えてゆく力を自分の中に認めたようにとぼとぼと歩みはじめた。父はまさか自分を不始末な女だとも信じはしまい。
「僕だってじきに大きくなります――」
 和歌子はその一言に渾身の祈念を捧げて、自らの内に苦しみに打ち克つ信念を堅めようとした。秋十月の夜更けであった。
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     第七章




 停学の期間が過ぎても平一郎は学校へ行くのは厭だと言い張った。平一郎の停学の理由を半日近くも学校で聞かされて来た母のお光は平一郎に小言一つ言わなかった。彼女はただ深い溜息をついた。
「他所《よそ》のお嬢さまに手紙を差し上げるなんて、お前大それたことですぞえ」
 こう言ったきりだったが、平一郎が学校へ行くのは嫌だと言うのを黙していられなかった。これまで仕上げて来た独り子である。彼女はしまいには「頼む」とさえ言った。平一郎もわけなしに湧く嫌悪の情を克服して、仕方なしに毎日学校へ通った。毎朝彼は眼がさめるときまって、「ああ、今日も学校へ行かなくてはならないのかなあ」としみじみ生きていることに苦痛を感じた。十一月の下旬にはもうこの北国の街に水気の多い霰《あられ》が一斉に降っていた。
 どうした訳かその頃から平一郎は和歌子の姿を見ることが出来なくなった。学校へ行く朝の路上でのあの幸福な栄光に充ちた遭遇は彼から奪われてしまった。彼は深井に尋ねたが、深井も知らなかった。深井の家を訪ねてもみたが、かつて見出した垣根越しの隣家の庭に和歌子の姿を見ることはなかった。
「隠したのかな※[#疑問符感嘆符、1−8−77] 己から奪ってしまう気なのかな※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」彼は和歌子の見えなくなった原因を平常の話から和歌子の家庭の主権者である継母の所為《せい》であると独断的に信じてしまった。どうかして和歌子の在処を知りたい。知らずに置くものかと思った。毎夜、霰の降る暗い寒い夜を彼は和歌子の家の周囲を彷徨《さまよ》った。しかし彼は不意に和歌子を発見する悦びのかわりに死んだような沈黙、さも邪魔者がいなくなった和らいだような歓声を家の中から彼は浴びせかけられて、独り憤激した。彼は手紙を敵の只中へ出す気にもなれなかった。深井も心配した。深井は家人にそれとなく聞いて貰っても返答はいつも「少し病気で遠方の親類へ行っております、おほほほ」でぼかされてしまった。平一郎の唯一つの望みは和歌子からの手紙になってしまった。学校から帰ると彼はお光に「手紙は来ていないか」と怒鳴った。手紙は来なかった。彼は焦々《じりじり》した。不安がどす黒い湿った暗い塊になって彼の精神の髄にしみつき堆積して行くのをどうにもしようがなかった。一斉に爆発すればそのあとは夕立のあとのように清々《すがすが》しいが、積み重なって行く鬱屈は永い苦痛のうちに陥れ、人間を腐らしてしまう。平一郎は恋人を奪われた寂寥、奪って行った無法な権力に対する怒り、彼の幸福を蹂み躪り彼の光栄を汚す、今あり/\と直観される賎俗な社会の力に対する、潜める全身的な憤怒を感じた。そして、この激烈な感情を燻《くすぶ》らせつつも独立を全うしない未能力者の彼は、苦しい日々の生活を迎えねばならなかった。彼はもう運動もせず、勉強もせず、一切の活力の健全な吐口を閉塞された死人のような人間になりかけて来た。彼は深井をさえ白眼で睨みつける日があった。
「大河君、そう心配しない方がいいですよ、え、大河君」深井はいつもこう言わずにいられなかった。
 それは、学校からの帰り路で、第二学期の試験の最終の日の午後、十二月下旬の細い乾いた雪がちら/\靴先に降りかかっていた。平一郎はしおれているように見えた。深井は幾度もためらいながら、平一郎のこの陰鬱と無気力を見捨てて置くわけにも行かないと思った。二年来嘗めつくした片恋の苦痛が、今、平一郎の苦痛を体験させ、そしてその片恋の苦悩を脱却するための文学への転換を彼は同じように「救済」として平一郎に説こ
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