た平一郎の実感だった。移転してしまってからも、長い間、平一郎は新しい家になじめなかった。あまりに前の家との相違がはげしかった。大きなS河のたゆみない流れの音の代りに廓の裏手から三味線の音が響いて来た。広い自分の家の代りに、八畳と四畳の二階借り、しかも階下は芸娼妓の紹介を仕事にしている家族であり、これまで手持ぶさたにしていた裁縫を、母は本気に仕事としてはげまなくてはならなくなっていた。彼は母に自分達はそれ程急に貧乏したのか、と尋ねたことがあった。母は「お前さんはこのさき中学校へはいり、高等学校へはいり、大学へはいって偉い人にならなくてはならないのです。それにはお金がいりますでしょう。だから今のうちになるべく倹約して置かなくてはいけませぬ」と言ってくれた。母は又、こうして廓の傍へ来たのは、する仕事(裁縫)の値がいいからで、お前は廓のそばにいても立派に勉強してくれなくてはいけないとも言ってきかした。平一郎はほんとに自分は偉くならなくてはならないと考えた。この精神が彼を小学校を首席で卒業させ、またこの精神が彼を単なる意気地なしの代名詞である優等生たらしめることなく、またこの精神が今彼をして男らしく和歌子に自分の真情を打ち明けようといたさしめていた。この精神はいずこより来たか。亡き父の意志よりか、母のお光の献身的な愛よりか、あるいは貧しい寂しい境遇の自覚よりか。そのいずれもであるには相違ない。しかしその根源にいたっては誰人《たれ》も知ることは出来ない。それを知るものは平一郎の内なる平一郎を生みたる宇宙の力そのものである。そしてそれは人間の言葉としては表現出来ないものである。
九時近くになってから母のお光は帰って来た。彼女は方々お得意先へお礼旁々廻って、仕事を集めていて遅くなったと言って、路であんまり甘そうなお饅頭があったので買って来たといって、卵形の饅頭を拡げて自分から先に食べるのであった。平一郎はその母の穏やかな様子を見ると、いままで忌わしい疑念を抱いていたことを恥じ恐れずにはいられなかった。彼は嬉しくなって、自分のために夜遅くまで仕事を集めに歩いている母の苦労が思われて、すまない気と、嬉しい気でいっぱいになった。彼は饅頭を食べながらもう少しで和歌子のことを打ち明けてしまうところだった。それ程彼は歓ばされていたのだ。
「ことによるとわたし達は冬子さんのいる春風楼へゆくことになるかも知れませんよ。あすこの離室《はなれ》が空いているから、そこをお前の勉強室なり、寝室なりにしておいてね」
「で、母さんは何をするのです」
「あすこの家のお仕事(裁縫)を一手ですることになるかも知れませんよ」
こう寝しなにお光は平一郎に話した。次いで平和で健康な眠りが来た。
平一郎|母子《おやこ》が借りている家の階下《した》は芸娼妓の紹介を業としている人であった。遊郭の裏街、莨店《たばこみせ》や駄菓子屋や雑貨化粧品店や受酒屋や[#「受酒屋や」はママ]などが廃頽したごみ[#「ごみ」に傍点]臭い店を並べている間に、古びた紅殻格子の前に「芸娼妓紹介業、中村太兵衛」と看板がぶら下げてあった。主人の太兵衛は生まれつき体格が逞しく力があって、青年時代は草相撲の関取であったというが、そして女と酒と博奕と喧嘩のために少しあった資産もなくしてしまった三十の頃、今の主婦さんに惚れられて世帯をもったのだというが、しかし今はもう五十を越して早衰した老爺にすぎなかった。芸娼妓紹介の仕事も、もと芸妓であった主婦さん一人でやっていた。主婦さんがお光に、もし今の亭主が自分から惚れた男でなかったなら、そして亭主を捨てることが昔羨しがらせた朋輩やお客の手前がなかったなら、そして亭主の巨大であった筋肉を奪い、聴覚を犯し、眼を悪くした悪い病気に対して多少の責任を自分に感じないなら、とうの昔に捨てて新しい生活の道を選んだろうと言ったことがあった。実際お光よりは三つ四つ若い主婦さんにとって、昔強かった時分のつもりで一日中怒鳴りちらして暮らしている亭主は重荷であるらしかった。お光は偶然ではあるが、こうした家へ住居を定めたことを後悔することも度々であったが、またこうした家の二階を借りたことがお光の生活に、また平一郎の生活に、二人にとって実に重大な、運命の力を感じしめることになろうとは後にいたって思いあたることであった。それは「冬子」とお光母子とを結びつけた偶然な事実であった。
お光母子が芸娼妓紹介の家の二階に移り住んではじめての秋十月のことだった。お光は夕飯をすまして、食器を薄暗い台所で洗っていた。階下の茶の間ではその日午過ぎから高声で主婦さんが嗄《か》れた声の男と話している何かの話のつづきをまだ喋っていた。此家《ここ》へ来てからまだ五月とたたないのであったが、誘惑されて来たらしい色の黒い田舎娘を坐
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