らせて置いて、
「九十六カ月の年期で五百円より出せぬ」
「いや、これで玉は上玉だあね、八百円出しても損はしない」
「――冗談でしょう。こんな代物に八百円出せとはそれあ無理でさあね」
「それじゃ七百七十円まで負けましょうや」
「どうして! 五百円が精いっぱいでさあね。お前さんだってそう骨折って育てた子供という訳じゃありますまいし、なんだね、思い切りの悪い。さんざ初物の御馳走を吸いつくしたかす[#「かす」に傍点]をなげ出すからってさ!」
「御冗談でしょう。それじゃまあ六百円――」
「ええ、しかたがありませんや、もう五十両で手を打ちましょうや」
こうして一人の女の五百五十円で売られてゆくような事実を幾度となく見せつけられている彼女は、またそうした話であろうと胸を痛めつつ聞かないようにしていた。何のあてどもなく田舎から出て来て行先に困った若い女、そうした女を再び浮かぶ望みのない深淵へ引きずり下すのみでなく、そうした深淵に生きる女達が、ふとした不注意から、思いがけぬ不意な熱情の迸《ほとばし》りから、また自然の苛酷な皮肉から、主の知れない呪われた子を生み下すとき、その不幸な子供を若干の金で貰い受けて、そしてじり/\餓え死にさせるようなこともするらしかった。大抵の嬰児は結核か梅毒で死んでしまった。死なねば、乳もやらずに放って置けば消えるように萎びて死んでしまった。――お光が聞くまいと努めても話し声は聞えて来た。それは自分の無力を自覚している彼女にとって、どうかしてやりたいという同情がおきるだけ、それだけ辛いことであった。
「それあもう万事わたしの胸の中にありますよ、そういうことにぬかりはありやしません」
「え、そりゃぁ主婦さんのことですから、それでもまあ念には念を入れろっていいますからな。えっ、はっはっはっは」
お光は食器を洗い終えてしまってからも、悲しい忌わしい人達に会うのに気を兼ねて、暫く土間の薄暗がりに立っていたが、話し声はぴったりしなくなった。彼女は思い切って茶の間に出た。すると主婦さんと人相の卑しい四十男とひとりの女とが、赤暗い電燈の光に照らされているのを見た。白味のかったセルの単衣に毛繻子《けじゅす》に藤紫と紅のいりまじった友禅をうちあわせた帯をしめている、ほっそりした身体つきが、お光には卑しい身分でないことを知らしめた。お光が水にぬれた手を前掛で拭いつつ土間の片隅から上りかけると、隅に女のらしい水色の洋傘がよせてあった。傍を通るとき男は「いや、どうもすみません」と少し背を曲げるようにした。そのとき女はそっ[#「そっ」に傍点]と顔をもたげて黙礼した。非常に美しいとはいえなかった。少し蒼味の勝った顔全体には、無愛想な精神的な上品さと、初心な純一さと、苦労して来たらしい淋しい神経質な陰鬱さが現われていた。女は何気なく黙礼したらしかったが、そこに予期しないお光を見出してはっと竦《すく》んだらしかった。赤くなるより青く沈む質《たち》であるらしかった。お光は二階へ上って、またひとりの女が深淵へ堕ちてゆくのだと思うといい気がしなかった。そして自分の無力が恨めしかった。平一郎ひとりを立派な人間に育てあげること一つさえ全力をつくして足りない自分がみす/\多くの人の堕落して行くのを見すごしていなければならない自分を悲しく思った。もっと世の金力、智力がこうした人間を助けることに用いられなくてはならない気がした。彼女は平一郎が昼の疲れで早く寝てしまったあとで、仕事する気になれず寝てしまった。疲労は彼女に熟睡を与えるに十分であった。
「恥さらしめが!」
胸苦しい悪夢にうなされているお光の夢を声が醒ました。夢ではないかと首をもたげると硝子戸越しに下弦の月が寒く照っていた。
「年甲斐もない、今のざま[#「ざま」に傍点]になっていながら、よくもまあこんなことが出来るものだね、お前さんは!」たしかに階下の主婦さんの声である。
「うう、汝《われ》の知ったことかい」
「知るも知らんもありゃしない。せっかく納得して自分からゆこうと思い立った大切な女《ひと》に、お前さんが今夜のようなことをしかけちゃ、このさきどんなことがあるかも知れないという気になってしまうじゃないかい。なんぼわたしが毎日毎日欠かさず御飯を食べさしているからって、そうおかしな色気を出してもらっちゃ商売が出来ませんよ。女が欲しかったら下店《したみせ》へ五十銭もって行ってくるといいんだよ――ねえさん、気を悪くしないで下さいよ、ほんとにしょうがないのですから」
「黙っていろ! この己を耄碌《もうろく》扱いする気だな、貴様は」親爺が立ち上ったらしかった。主婦さんの甲高い声が聞えた。「あ、何を――」という慎しみを忘れないうちにも全力的な悲鳴に似た女の声がして、やがて、けたたましく階段をのぼって来た。細帯の
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