る」と叫ばずにいられなかった。そしてその友情の性質は非常に誇りの高い、盗犬のように、こっそり和歌子に手紙をやることを許さないものであった。「どうしたものか」と彼は十字街に立って考えこまずにいられなかった。十分間も彼は佇んでいた。路の正面は和歌子の家のある邸町へ、右へ下る坂は母がまだいるであろう、冬子のいる春風楼のある廓町へ、左手の坂は大通りへ通じていた。彼は往き来の人を見送り見迎えていた。すると電光のようにある悦ばしい考えが「踴躍」という言葉そっくりの感情と共に現われて来た。それは、深井自身に平一郎が自分の恋を打ち明けて、そうして自分の手紙を深井によって和歌子に渡して貰うことであった。「それがいい、それがいい……」平一郎は自分の家へ引き返しながら、それがいかに男らしい態度であるかに想い及んで嬉しくてならなかった。
「それがいい、それがいい、自分は和歌子を恋している、また自分は深井にも醜くありたくない。そうだ、これがいい、これで和歌子が自分よりも深井を選べば、もしくは選んでいるなら、自分は残念だが――」(思い切る)とまでは自分に明言できなかった。しかし自分が醜いことをしなくてもすむという心安さはあったのだ。
 平一郎が家へ帰っても母のお光はまだ帰っていなかった。彼はいつもひとりであるときするようにランプの掃除をして、薄暗い三分芯に灯をともして、そうして明日の代数の予習をはじめた。五月の日はとっぷり暮れてしまった。裏の廓の方からは、さっきとはちがった冴えた三味の調べがりょうりょうとしめやかな哀れ深いうちにもりん[#「りん」に傍点]とした芸道の強味を響かせて聞えて来た。平一郎は何故か「偉くなる、偉くなる、きっと偉くなる」と呟かずにいられなかった。母を待つときの寂しさがやがて少年の胸に充ちて来た。
 夜がかなりに更けても母のお光は帰らなかった。そうして灯の下で夕飯も食べないで母を待っている平一郎には、いつも母の帰りの晩《おそ》いとき感じる、あの忌わしい、実に言葉に発表出来ない、鋭い本能的な疑惑を感じはじめて来た。恥かしいことであると思った。母が帰って来て穏やかな顔を見せてくれれば、すぐに消えてしまう、そしてすまないと考える忌わしい疑念。そうした恐ろしい疑念を現在自分の母に対して起こさなくてすむ人は幸福である。平一郎は刃のように寒く鋭くなる疑念を制し切れないままで、自分の「貧乏」を悲痛な念で反省せずにいられなかった。
 貧乏、貧乏! ああ貧乏であることがどれ程まだ十五の少年である彼のすなおに伸びようとする芽を抑制し、蹂み躙り、また鍛錬して来たであろうか。彼が自分の「貧」ということを身に沁みて感じたのは彼が十二の初夏のことであった。その頃までは彼にも自分の家というものがあった。この金沢の市街を貫き流れるS河の川べりに、塀をめぐらした庭園の広い二階建の家が自分の家として存在していた。無論自分の家ではあるが自分達の住む部屋は前二階の二|室《ま》きりで、奥二階にも店の間にも幾多の家族が借りていたのだ。それでも自分の家であることにかわりはなかった。小学校の五年あたりまでは裕福でないまでも、彼はのんびり育って来ていた。川瀬の音がすぐ真下に聞かれる庭園の梅の樹や杏の樹や珊瑚樹の古木を、彼はどんなに愛したか知れない。父のいないということ、父が三つのとき亡くなったということ、その淋しさは無論彼に迫ったが、しかし父の生活していた家がこの家であるという自覚、父はこの辺りでも有力な貿易商であり、また町中での人望家であったということ、などがその淋しさを補わないでもなかった。息《やす》まず限りなく流れるS河の水音がそうした彼の感情に常に和していたことは言うまでもない。しかし、平一郎にも苦しむべき時がやって来ねばならなかったのだ。母のお光が彼の三つの時から十年近い年月を女一人の力で亡き夫の家に居据ったまま暮して来たことは、並大抵の苦労ではなかった。しかし人力もそう続くものではなく、ある限度を越えれば運命に負けねばならない。平一郎が成長するにつれ生活費もかさまり、また彼の前途に控えている「教育費」の心配も予めして置かねばならなかった。お光は十幾年住みなれた亡夫の唯一の遺産である「家」を売ったのである。そして平一郎は「父のない、そうして家のない」少年となったのである。平一郎は悲しい「零落の第一日」をよく憶えていた。梅雨上りの夕景の街は雨にぬれて空気は爽《さわ》やかであった。うるんだ空に五色の虹の光輪がかかっていた。家財とても荷車に積んでみるとそんなになかった。平一郎は三度目の、そして最後の移転車《ひっこしぐるま》のあとについて歩いた。零落したという感じ、もう家がないのだという心細さ、世間が急に狭く圧迫を強めて来るような淋しい感じ、それがその時の空にかかる虹を見ながら歩い
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