をつけて毎日三人を学校へ通わした。お光には知らない他所の子供達と一緒に椅子に腰かけて、年老いた先生から難しい漢文や算数を習うことが厭でたまらなかった。どうかして学校へ行きたくないものだと、その頃お光はどんなに思ったろう。それに引きかえ容一郎と綾子は学校へ行くことを喜んだ。容一郎の学問に対する進境の速かなことは学校の先生を驚かした。彼は家へ帰ってからも一人黙って書物をいじくって日を暮らすようになった。豊かな黒い髪、豊麗な肉付、切れ目の長い瞳、透き徹った骨の硬い鼻筋、品のいいふっくらとした鼻付、肥えた下唇、緩やかな顎、血色のうるわしい耳房――人々はお光と綾子を瓜二つのような美しいお嬢さまと言ったが、お光自身は自分が綾子のように美しい少女であるとは信じられなかった。学校でお光は他人と話するのが辛いために部屋の隅に隠れているにもかかわらず、綾子は十日も経たないうちに三十人近い年上の生徒達をいつしか自分の身辺に集めて「綾子さん、綾子さん」と皆に崇拝されていた。お光も内心綾子を崇拝していた。しかしお光には学校は面白くなかった。春になると彼女は学校への道の中途で忘れ物をして来たと嘘をついて、麗《うらら》かな春の日の照っている菜の花畑で、雲雀の声を聞きながら、幸福な春の半日を静かな野に送るのを常としていた。
お信が苦しい恋愛の胎内から生み下した三人の児は、北野家の勢威とお里の愛のうちに長閑《のどか》な平和な日を育って行った。悩みというも、悲しみというも、平和な大海の面に騒ぐ小波にすぎなかった。幸福なうちにお光達の青春がやって来ていた。お光は彼女の青春が来ない少女の時代に対してはそう大した記憶がなかった。
「ほんとにお前さんと綾さんとはよく似ていましたよ。二人が眠っている寝顔を見るとどちらがどちらか分らない位でした。でも、そんなときにはどっちか一人を起こせば分りました。お前さんであれば起こされてはじめはぼんやりしているが、わたしだと分れば穏やかに笑ったけれど、綾子さんだと厳しく怒るように瞳をみはって、それからひきつったように顔を歪めましたっけ」とお里がお光に二人の少女時代の話をした。
少女時代にお光が唯一つ忘られない事実がないでもなかった。それは村の貧しい小作人の一人(背の低い陰鬱な、貧乏のために結婚をせずに一生いた男だという)がある夏の夜、村の娘を無理に関係をつけてしまった。娘は月足らずの男の児を生んだ。その児を仕方なしにその男が育て上げねばならなかった。成長するにつれてその少年はどこか普通の少年と異常で、何よりも労働を嫌がった。野良へ追い出しても草原に寝そべって青い空に吸われるように見入っていて草一つ※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》ろうとしない。彼が十六の年、彼の親の小作人は「乾鰮《ほしか》のように」黒く瘠せ枯れて死んでしまった。親が死んでから彼は小さな家に閉じ籠って仕事をしようとしなかった。村の人達が行っていろいろ意見するが、恐ろしい顔をして「馬鹿!」と怒鳴りつけて寄せつけない。村の人達の話によれば、次のような会話が幾度となく取り交されたというのだ。
「どうしてお前はそんなに怠けているのだ。親爺が死んだらお前が親爺のあとをついで家を立ててゆかなくちゃなるまい、え。お前の親爺はいい働き手やった。その子のお前じゃないか。働いて大きうなって嫁を貰って一家を立てて行かなくちゃならんではないか」
「誰が働くものか!」
「働きとうなくても、吾々のような貧乏人は働かなくては食えないのだ。そこを諦めて働かなくてどうする」
「厭だ! 働いて親爺のように黒い乾鰮のように瘠せて死んでしまうのは俺は厭だ」
「働かずにどうして生きておれる」
「嘘を言え!」
「ど、どうして嘘を言うものか」
「そんなら北野様御一家はどうしてあの贅沢をして食っているのだ!」
村の人達はこう言われて恐ろしい禁制を犯したような危険を感じて、この一少年によって表現された言葉の意味を考えようと試みたが分らなかった。そこで彼等は容太郎にこのことを告げて「意見」を頼んだのであった。
「今夜でもいってやろう」と容太郎が言った。お光はそれを傍に居《お》って聞いていた。夕方彼女は父について家を出た。村のはずれの小さい小屋のような家の前で父は「太一いるか」と言った。
「誰だ!」
「わしだ。なぜ灯をとぼさんのだ」
「油がないからだ!」そう言って戸をあけて出て来た、瘠せた、眼はある種の権威に輝いている薄汚い少年を、お光は忘られない人の一人として一生思い出した。
「北野の旦那様ですかい。何の用があって来たのだ。俺は親爺の残して行ったほんの少しの零《こぼ》れ米で食っているのだ。働こうと働くまいとお前さんの知ったことであるまい。帰ってくれ! さっさと帰ってくれ!」
「何を言う※[#感嘆符
前へ
次へ
全91ページ中44ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島田 清次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング