白い燐光を燃やして息を引き取ったという。双児の一人は綾子であり、一人はお光なのであった。三十近くなっていた容太郎にとってお信の死は、忌わしい恋愛よりの解放であった。彼はまだ若かった。北野家に遺伝される善い素質が彼を彼の父が残した事業へ向かわしめた。彼はそうして救われるべきであった。彼一人はそうして救われるとしても、彼が犯した罪業の塊、あの年若い甥一人のために一生を捧げてそのためにはいかな罪悪も秘密も忍び終えたお信の血は、容一郎と綾子とお光との三人の生児として北野家に残されてあった。幸いにもお里は子がなかった。子のない女の寂しさは三人の子供を親身の母のように愛育した。お光は後に、お信がお里を北野家へ迎えようと主張したことを思い合わせて、何ともいえない微妙さを味わうことがあった。
しかしお光が物心がつきはじめる頃の父の容太郎の印象はそうした前生涯を通って来た人とは思われないほどに功利的でより実業的《マアチャント》であった。容太郎はお信の死後、再生したといってよかった。長い間の奇怪な幽鬱な肉欲と蒼白な魂の感化から解放された彼に、抑制されていた英雄的な物質主義が生きて来た。憂鬱はお信のもので、彼自身のものでなかった。精悍な体躯と容貌をお光はよく記憶していた。百畳は十分敷ける広大な茶の間(天井のないその部屋の高い屋根裏を橋梁のように太い梁が走り、片隅の一間四方の囲炉裡には純銀の茶釜が黒ずんだ自在にぶら下げてあった)の正面に坐って来客に応対している父のどっしり落着いた態度はお光に忘られなかった。大抵の来客は、ひっそりした広い部屋内の静けさと、容太郎の態度とに脅かされて半分の力も使えないらしかった。「あはっはっはっ……」と何かの拍子に彼に一つ哄笑されるともう大抵の者は逃げ帰ってしまうらしかった。そうした風になりきった容太郎はかつては彼の父の伝右衛門が熱中したように、事業欲に熱したのであった、酒の醸造、大仕掛の漁猟、付近の村や町との取引――という風に、明治も十四、五年になる頃は、彼の威勢は付近の村々にも鳴り響いていた。そうして彼の家庭の内部を一切しめくくったものは哀れな生まず女のお里であった。お光は幼い時分のことを想うごとに柔しいお里の生涯に感謝せずにはいられなかった。
お光が彼女の兄姉やお里に関する最初の記憶は妙に一生忘られない暗示に充ちたものであった。冷たい感触の漂う奥の仏室で、まだ五つになるかならずの彼女は姉の綾子(双児ではあったがお光は妹分にされていた、それは一生そうであった)と二人で紅椿の花で飯事《ままごと》をして遊んでいた。障子に薄日が薄赤く射していた。綾子に対しては何故か受動的であるお光は綾子の言うままに花弁《はなびら》を一枚一枚揃えていたのだ。綾子はお光の揃えた花弁を糸でつなぎあわしていた。すると後ろで不意に綾子を擲りつけるものがあった。それは兄の容一郎が、青ぶくれのした大きい頭を重そうによち/\歩みよって、お光だと思って綾子を擲りつけたのであった。しかし次の瞬間容一郎はそれが綾子であったことを発見して蒼くなって立ち竦《すく》んでしまった。お光に対して生来強者である彼は綾子に対してはまるで弱者であったのだ。彼はお光の穏やかな哀れを乞うような涙の代りに、綾子の恐ろしい侮蔑の眼光を得ねばならなかった。「容一郎の馬鹿!」それはお光が年とってからも忘られなかったほどに恐ろしかった。無論容一郎は力を限りに泣き出したのであった。こうした三人の子供を育てて行かねばならないお里も可哀そうであった。お光はよく奥の薄暗い納戸の蔭でお里がしょんぼり涙ぐんでいるのを見た。お光が年をとってからお里が「お前さんの父はわたしを一度でも本気に愛したことがあるのだろうかしら。一度でもあるならわたしだって一度位は自分の子を生んでもよさそうなものだのに――」と言ったことがあった。「お信さんは生んでくれたのだわね。わたしは育てる方の役目らしいのね。ほんとにお前さん達は母親を二人もった果報者というわけだったのね」と言ったこともあった。そしてそうした事を言う程にお里が三人のうちでお光を誰よりも愛したことも事実であった。お光はまた、父の容太郎が急がしい事業に暇々に虚弱な、我儘で、小心な容一郎が泣いてぐずっているのを「ああ、北野家も己限りかなあ」という風にじっと見守っている寂しそうな姿も覚えていた。生まれた子の劣悪を非難できない父の心中を思いやるとお光は淋しく、そうして自分の肉心にめぐる血に異様な恐ろしさを感じずにいられなかった。父はお光をも愛したが、勝気で男勝りな、強い綾子の、豊麗な少女と成長して行くのにある希望を見出していた。
三人の兄妹が七、八つになった時分、隣村にはじめて小学校のようなものが創立された。誰一人村では通わそうというもののないその学校へ容太郎は召使
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