疑問符、1−8−78]」
「大盗賊《おおどろぼう》! 俺の親爺を乾鰮のように干乾しにして殺した大盗人! この俺までを干乾しにしようとするのかい! くそッ、その手にのるもんかい! 大盗人」そう言って彼はさも忍耐できないという風に大きくしゃくりあげてすすり泣いた。容太郎は暫くぼんやり立っていたが、おぼろげに彼が何を言おうとしているかが分って来た。もう許して置けなかった。身内に何代もの祖先の血が逆行した。彼は泣いている少年の頬を力まかせに擲りつけた。すると少年は泣くのをぴたりと止めた。
「う、う、やったな。仇討だ! 覚悟をしろ!」
「身の程知らずめ!」
「うう」
 薄暗い戸口で格闘がはじまった。何といっても容太郎が強かった。彼は少年を捻じ伏せて後ろ手に帯で縛り上げてしまった。そしてお光に村の者を呼んで来いと言った。お光はそう言われてはっ[#「はっ」に傍点]とした。彼女はその瞬間、彼女は少年が勝ってくれるようにと無意識に少年に同情していたことを知ったからであった。彼女は父にすまない気がした。しかし少年のために祈ったことも事実であった。彼女は村の人を呼びに行った。村の人が来ると容太郎は「こいつは気が狂《ふ》れたらしい。家の裏手の灰小屋をあけて、あの中へ閉じ込めて下され」月光が白く村一面に降りそそいでいる夜であった。村の人達は少年の灰小屋の一つに押し込めてしまった。
「盗人! 村の血を吸いとる大盗人! うう、うう、村の衆の大馬鹿! うう、うう、己を縛りあげるとは、うう、大馬鹿! 大盗人! うう、今に見ろ! 今に見ろ!」
 必死の唸きが春の夜を月に吠える病犬の叫びのようにいつまでも吠えてやまなかった。灰小屋の中で灰に塗《ぬ》れて「焼け焦げの乾鰮」のようになって、この哀れな叛逆者は、三日三晩叫び続けて死んでしまった。
 村の人達は相変らず黒く湿った土を耕すために薄暗いうちから野へ出て、堅い土を耕し、田植の賑やかな忙しさを送ればすぐに水廻りや、草※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]りや、虫送りを迎え、さて秋の激烈な取り入れという風に、一年を通じて日の出から日の入りまでの労働に骨身を惜まなかった。彼等が死なないのが不思議な位であった。彼等は頑強らしく見えたが、それは太陽の直射と荒い風のためにそう見えるので、その実、瘠せ衰えて病気に罹りやすい抵抗力の弱い身体をもてあまさねばならなかった。苦痛を逃れられないものとする宿命観と暗夜の泥塗れの淫蕩、そうして貧乏。しかしそれは大川村の人達のことであった。北野家には幸福と平和のみがあるべきであった。
 お光は二十の夏まで不幸、真に人生の不幸というものを知らずに生きて来ていた。しかし遂に彼女をして涙の味わいを知らしめる時が来た。それは忘れもしないお光が二十の夏、日本の年号でいえば明治二十五年の七月のことであった。
 その日は朝からじり/\焼け爛《ただ》れそうな日であった。これほど熱烈に明徹に燃焼した日が地上にあり得ようかと思われた。地上の物象が燃え上らないのがお光には不思議に思われた。この日は、二、三年前から兄の容一郎が英語を勉強するために金沢の市街《まち》へ往復するようになってから親しくなったその市街の大きい商人の一人息子である大河俊太郎が、新造の和船を北海道の方から廻航して来る道すがら、大川村の浜へ寄るはずになっていた。俊太郎は兄の容一郎とは気が合うというものか、彼から泊りがけに来ることもあり、容一郎が俊太郎の家へ泊りがけに行くこともあった。そうして彼と綾子とが恋し合っていることは兄もお光も認識し、また好意をもって許しあっている事実でもあった。そうした俊太郎が二十四の青年でありながら、一隻の船を廻航してわざわざ大川村の浜へ寄ることは容一郎兄妹にとっては嬉しいことであった。容一郎とお光は浜への焼けた村道を歩いて行った。綾子は誘われたが来なかった。そうして彼女の来ないところに彼女と俊太郎との恋があった。容一郎とお光はそうした綾子の心を思いやっていた。
 その日、歩いてゆく二人の上に光った空はぴり/\顫え、一面の青田から陽熱に蒸された若い稲の強烈な匂いがお光達の感覚を圧迫した。曠野の中に細く立った無常堂の錆びた煙突も赤く輝いていた。お光と兄は黙って歩いて行ったが、お光には容一郎がこうした強烈な自然の光景を見まいとするように眼を閉じるのを知っていた。曠野の涯の松林を越えると道は熱砂の砂丘に高まっていた。薄赤い昼顔が砂上に夢のように咲き乱れていた。そうして陽熱と地熱の照り返し合う砂丘へ満々と湛えた碧藍の海から微風がそよ/\と吹いて来た。
「ああ、いい気持!」と兄はお光を顧みて叫んだのであった。限りない充実を静かにゆるみなく漲らした偉大な海の前に立って、お光もいつものことながら兄の叫びに同じたのであった。
 
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