しなに冬子の方を見て、いいかいというようにうなずいて見せた。女将はお幸に莨盆を持たせて後についた。残っている冬子に楼主は、
「今朝はわしが古龍亭に呼ばれてな――まだ店の女共には言わないでいるが、えらい急なことになったじゃないか」そこへ女将が下りて来た。
「冬子さん、お前さん前もって電話でもかけて置いてくれれば妓共も揃えたりなんかして置くのに、ほんとにわたし気が気でありゃしない――とにかく二階へ上がって頂戴な」
「女将さん、ことによるとわたし――」
「まあ話はあとにしてさ」と言われて冬子は二階の奥庭に面した座敷へ来た。
 二階ではお幸と菊龍が天野の機嫌を取るのを、天野が静かな微笑であしらっていた。
「どうだった」彼は冬子に声をかけた。冬子はためらった。
「いいよ。言った方がいいよ」
「あの――まだ何も話は致しませんですの」
「――そうか」
 彼はむっくりと立った。冬子にその儘でいるように暗示して、階下へ下りて行った。二階ではお幸と菊龍と冬子が残された。お幸はいつものように艶々と美しかった。
「暫くでしたのね、冬子さん」
「ええ」
「何だか一月も会わなかったような気がしますのね」
 冬子は微笑した。一月どころでない。一生を新しくする改革の体験を自分はこの三日のうちに得たのである。永い間苦しめた自分の尊敬と愛を捧げるものをもたない寂しさが一人の男によって破られてしまったのだ。曠野に太陽は現われたのである。もはや寂しい孤独ではない、仰ぐべき太陽をもつ自分である。冬子には、それは寂しいことではあるが、その「寂しさ」は前の寂しさと違っている。
「わたし、ことによったらお別れするかも知れないの」
「あなたが? 本当? そう――それはおめでとう!」
 そこへ天野が戻って来た。女将が天野の後ろから、
「冬子さん、おめでとう! 天野の旦那様によくお礼を申し上げなさいよ、本当に」とさすがにこうした折の悦びも悲哀も味わいつくして来たらしい、涙|含《ぐ》んだ陽気さで大きく叫ぶのだった。
「女将、妓達を七、八人招んでくれないか」
「は、今じき来るようにいいつけて置きましたから――お幸ちゃん、冬子さんはもう素人になったのですよ!」
「今晩は」
「今晩は」
 六、七人の若い芸妓が陽気な匂いと声音と熱とをともなってはいって来た。そして冬子に「おめでとう」を唱えた。
 月の澄んだ深い夏の夜である。この美しい夏の夜の世界に、ひとり冬子の運命が急激に変わったのである。誰も冬子のこの運命を切実に胸に感じるものはなかった。[#「なかった。」は底本では「なかった」]ありきたりの習慣として「おめでとう」をとなえ、普通な心持で冬子の幸運を羨む位に過ぎなかった。
(これが自由というものなのかしら!)冬子は独り呟いた。二千円の金で自分はもうこの瞬間から芸妓という勤めはしなくともよくなったのだ。妙に寂しい気がした。取りかえしのつかないことをしたような気もした。澄みわたった黒藍色の空から月光が白刃のように光っていた。彼女ははしゃぎ廻る同僚の姿を傍観した。心はすでに遠く離れてしまった。
「冬子」
「はい」
「お前は鼓が上手だそうだね」
「はい」
「この月夜だ。聞かしてくれないか」
 なじみ深い芸道に対する熱愛が解放された冬子の心身に甦った。ああ、打とう、打とう、この好《よ》き夜を打って打って打ち明かそう! 彼女は凛然と言った。
「お幸さん、絃《いと》をお願いします」
「ようござんすわ、冬子さん」
 お幸の三味線と冬子の鼓が取り寄せられた。冬子は脈々と湧き立つ芸道の悦びの波を制しつつ、永年愛しているなつかしい大小の鼓をなでまわした。悪びれもせず、朋輩の幸運を祝うこの夜に、真面目に三味の音色を整えはじめたお幸の艶やかな姿には、同じ芸道に対する自信と熱情が漲《みなぎ》っていた。一座は粛然と静まりかえった。
 澄みわたった大空に月は明鏡の如く清く照っていた。大空いっぱいが寒い白光に明るめられ、下界は森然と水のように透明であった。静かに澄み切ったこの世界に、三絃の音調が緩やかに低く鳴りはじめた。音色は緩やかな平和な調べをようやくに強め、撥《ばち》の音が水を切るように聞えたとき、極めて柔しい小鼓《こつづみ》の音が、三絃の調べにからみ合った。奔流のように瀬波をつくって高くなり低くなり奔放な情調を伸べようとする三絃の音色の要々を、時には軽く時には重く、鼓の音が厳粛に引きしめ、制《おさ》えつけ、緊め上げつつ、音曲は悲壮に高められて行く。優婉な三味の音が、静かな夜気に顫えて人々を甘美な夢に引き入れようとするのを、蔽われていた鼓の響が力を潜ませつつ中空に高く踴躍する。長い間二つの音色は戦った。戦いつつ、微妙な悲壮さは悠々たる力に充溢する。音楽はやがて急湍《きゅうたん》のように迫り、二つの音調は急流のように争
前へ 次へ
全91ページ中38ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島田 清次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング