実業家という人達が一日中をこの別荘の広間に過ごした。冬子はそれらの人達をもてなすうちにも彼等に対する彼の態度を注意深く見|戍《まも》っていた。まるで彼は一日中を行ない澄ました修行者のように寝そべっているのだった。訪問が一しきり止む閑には女中に足から腰の辺をもまして、静かに瞑目している。そうして一日が暮れた。その夜、彼は女中にビールを命じて冬子を相手に静かに浅く酌み交わした。そして夜は前夜のように死んだような沈黙と静けさであった。
(ああ、このような男、このような男、このような男がこの世に生きていたとは!)
幾年の間、抑圧して来た情熱が一切の規約を越え破って冬子をわな/\顫えしめた。どうしてもじっとしていられない。手足が火のように燃えて来た。もう自分は芸妓でない。「情を売る」旅の女ではない。一人の勝れた女、一人の潜めた可能力を一斉に噴き出して、はじめて感じる恋の聖《きよ》い熱情に燃えた女だ。
三日目の夜更けのことであった。冬子は生死さえ分らないような彼の動かない身体に力いっぱいしがみついて、全身、脈々と湧く焔の波に顫わせていた。鈍い半眼が、落着いたままに開いてじっと見据えた。「冬子か」
「お許し下さいまし」
「お前には両親がない筈だったね」
「は、い」
ああ、燃ゆる生命よ。沈着な根強い男の認識に根柢より燃え上がる女の生命が移った。静かに眼を閉じた。一身を献ぐる女の真情に偉大な力は根柢から揺り動かされて来た。燃えさかる烈火を蔽い包むように巨人の力が冬子を抱いた。
「わたしを一生、一生お傍に置いて下さいまし」
「置いてやる。己ももうお前がなくては空虚を感じる」
「本当ですか」
「嘘は言わぬ。明日はもうお前は芸妓ではない。己が自由にしてやる。東京へ一緒に来る気があるか」
「――行きます。何処へでも、何処へでも行きます――」
「――」
「しかしあなたには立派な奥様も立派なお坊っちゃまもいらっしゃるではありませんか」
「己には妻子はある。しかしお前も必要なのだ」
「――?」
「妻の代りじゃない。妻とは別なお前だ。お前はお前で己には無くてはならぬ一人になったのだよ」
次の朝、古龍亭の若い主婦《おかみ》さんに冬子の「身受け」が託せられた。春風楼へ楼主にすぐ来るように電話がかけられた。酒で眼を充血さした楼主がやって来た。冬子は主婦さんが楼主と交渉するのを襖を隔てて聴いていた。
「ほかでもありませんの。大変突然ですが、天野の旦那様が――冬子さんのお客様のことですよ――冬子さんの身の立つように世話をしてやろうということになりましたの。それであなたの御都合さえよろしければ明日にでも、早く話を決めてしまいたいと仰っしゃっていらっしゃるのですから。どうでしょうかしら。今日来て戴いたのはそのためですの」
「ほう」と楼主は驚いたようだった。「それはまあ結構なことで」
「それでね、つまりあなたの方の御都合はどんな工合なんですの。冬子さんを一生手離すのには、矢張りあなたの方でもいろ/\何があるでしょうから――」
「ええ、それはもう勿論、今冬子に行かれては実際、わっしの方も困るので――」
「それはもう、冬子さんからも聴いてみますと未だ二年ばかりも勤めなくちゃならないのだそうですから、その辺はお察ししますが、一体いくらで自由になさるおつもり?」
(一体|幾千《いくら》で)ああその言葉に呪いあれ! と冬子は思った。
「それは――主婦さん、二箱より下では離せませんな」
「しかし、それでは冬子さんもあんまり立つ瀬がなくなりはしないでしょうか」
「さあ、安いもんですぜ。あれだけの女に仕上げる苦労を考えてごらんな」
二箱――二千円。凡《あら》ゆる忍耐、凡ゆる屈辱、魂と生命の切り売り、その長い辛労の後ではないか。しかもさらに二千円の償いを取る理由がどこにあろう。二千円という金で価値づけられることも悲しいが、二千円を貪り取ろうとする楼主の心も憎い。
「二箱を欠けちゃ第一天野の旦那様にしてからが、みっともないではないでしょうかな」
冷酷な、利害の要《かなめ》をしっかり把《と》って放さないような声である。
「それじゃ、ようございますわ。そう申し上げますから」
主婦さんは天野の部屋へゆく道で冬子に、春風楼の楼主は「まだ訳の分る方」だといって聞かした。冬子は「身受け」が少しも嬉しくないとさえ思えた。とにかく楼主は冬子を「二千円で自由にして」そして「冬子によろしく」と言って帰って行った。
この夜、二台の俥が春風楼の門口についた。天野と冬子であった。十時近い茶の間には菊龍とお幸と女将がいるだけだった。
「女将さん只今。天野の旦那様も御一緒にいらしって下さいました」
「これはまあお初にお目にかかります。さあ、どうぞこちらへ」
白い浴衣がけの身軽な天野は二階へ上がった。上がり
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