身をまかせていた。川瀬の音が永遠の響きを高くする。
「冬子」
「はい」冬子は立って彼の傍に近寄った。
「向うの山脈はあれは何という山だ」
「あの近い方は医王山でございましょう」
 霞んだ深い夜気に山岳はくっきりと山肌を露わして、全山濃い紫紺色の綾のように光っている。天野が山を見ているのか、ただ、立っているのか、冬子には分らなかった。分らないところに微妙の力が彼女にしみわたった。
「寝るとしよう」
 彼は冬子を忘れたように部屋にはいって、次の寝室に行きかけた。
「あのお寝巻を」
「うん」彼は女中に着替えさせて、蚊帳の中へ這入《はい》った。
「冬子」
「はい」
「眠くなったら、ここの床へはいってねるがいいよ」
「はい、ありがとうございます」
 冬子は、自分の生涯に、今のような強くて温かで真情に溢れた言葉を聞いたことがなかったと思った。彼女はお光を想い起こした。お光の傍にいると自分が芸妓であることは自然に忘れてしまう。彼の前では自分は芸妓でありたくないと一心に思う。お光の傍にいては穏やかな平和に解け合う代りに、彼の前では自分などには量り知られぬ偉大な力に圧倒され、しかもその力に引きずられそうになる――(眠くなったらここの床へはいって寝るがいいよ。)蚊帳のうちは全く静寂になってしまった。冬子は蚊帳の中を見守った。呼吸さえ聞えなかった。彼女は妙に自分が不調法で、すまないように思われて来た。客に招ばれた芸妓が客を先に寝かしたまま放って置くということがあり得ようか。しかしそうなってしまった。彼女は立って自分の部屋にあててあるという壁一重隔てた次の間に去った。強烈な光の下に、鏡台やかけがえの着物や三味箱などが取り散らかされてあった。女中が妙な顔をして彼女を見た。彼女は帯を解いて、薄手な藤色の長襦袢に着替えた。博多の細帯できつく腹部をしめて、鏡台に対ってあっさりと薄白粉を施した。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 冬子は静かに蚊帳の中にはいって一方の床に身を横たえた。
 不思議な夜であった。最初彼女は或る屈辱を予期して身を慄わしていた。しかし、部屋は森として人気のないようだった。彼女は眼を開いて隣の天野の様子を見た。彼は覚めているのか眠っているのか分らなかった。ゆるやかに四肢を伸ばし、仰向けに正しく頭を整えて呼吸の音さえさせずに動かない。腰のあたりまで夏蒲団を軽く乗せ、右手を腹の上へそっと乗せて、ただ幽かな胸から下腹への緩かな高低のみが彼の生を表わしているに過ぎない。彼はもう寝いったのか。自分のことを少しも念頭に置かずに眠ってしまったのか。もしそうなら自分は彼のために、「芸妓」「婬売婦」よりももっと何んでもない人間にあたるのかも知れない。それとも彼は黙想に耽っているのか。それにしてもあまりに厳そかで寛ぎすぎた静けさである。冬子は瞳を開いて水中のような冷やかさを感じて眠られなかった。枕の下で川瀬の音が絶えなかった。神経が白熱して来た。幼い時分のこと、少女時代のこと、父の死、兄の失敗、自分がはじめて芸妓に売られた夜のこと、お光のこと、芸道の苦心、汚《けが》れた境界や周囲から自分を救おうための緊張と努力と苦しい涙、仕方のない屈辱、急流のように生涯の総勘定が体験されていった。そして思想の断《き》れ目毎に見える彼はもとのように静かで動かない。彼女はそのうちに異常な侮辱を感じて来た。そして硬張《こわば》った神経の疲労のために泥のように寝入ってしまったのである。
「冬子、冬子」
 朝の光が射していた。青い霽《は》れた空がめぐまれていた。隣の床で天野が腹這いになって、冬子の方へ首を向けて呼んでいる。
「はい」彼女は眼を開いて、床の上に起き直った。彼に起こされるまで寝入っていた自分が生涯にない失策だと考えられた。
「もうお目覚めでございますか」
「ううん、そうじゃない。眠かったらもっと寝ておいで――今日はね」
「はい」
「沢山人が訪ねて来るだろうから、お前御苦労でも一々もてなしてやってくれ」
「はい、かしこまりました」
 彼は莨盆を自分で持って来たらしく、葉巻をうまそうに喫《ふ》かした。
「お前、眠そうだな」
「いいえ」と言ったが冬子は当惑した。そして起きあがった。昨夜感じた自分の「侮辱」の感に対しあまりに見苦しい自分の失策である。それにしてもこの厭味のない温かさをどう享《う》け入れよう。(ああ、それにしても、一つ蚊帳に寝ながら、ある一事を強いられないうれしさよ。)彼女は恥と悦びとを同時に感じて自分の部屋に去った。彼女が化粧をすまし着物を着替えて、朝の新しい茶をもって座敷に帰って来ると、彼ももう起きて「山岳」のように坐っていた。窓外は一面の乳色の川霧が森林の上層を速やかに流れていた。
 朝飯もすまさないうちに訪問の客があった。市長、県会議員、市内の有力な
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