ままのさっきの女が、はげしい動悸と、恐怖と、怒りを、抑制しつつお光の傍へよって来た。お光は床に起き直った。秋の月の光がかすかに射し入っていた。
「こちらへいらっしゃい」
「は、どうも相すみません」
女はしょんぼりそこに坐って慄えていたが、恐ろしさよりも怒りの方が勝っているらしかった。何もかもがあまりに明らかに判りすぎている事実であった。お光は自分の枕をずらし、座蒲団を円めて枕の形にして、自分の床の傍をあけて、「こちらへはいって、おやすみなさい」と言った。女は「すみません」と小声で言いながら、お光のわきに小さくかがまり横になった。お光も横になった。そして階下の物音に耳を澄ました。しかし階下はひっそりして、主婦さんも親爺も静まりかえってしまった。お光は女のほっそりした肩先の止め得ない戦慄を感じていた。偶然ではあったが、お光はこの時女と自分との心がぴったり融合し合っているのを感じないわけにゆかなかった。ああ、哀れな女よ、やがて戦慄の波が大きく刻みはじめてすすり泣きになった。お光も一緒に泣きそうになってしかたがなかった。お光は肩のあたりをさすってやった。「わたしは、不仕合です、ほんとに、ほんとに……」女は涙をこらえようとしてその度に一言ずつ呟いて、また泣いた。
しかし涙は悲しみを温める力をもっている。泣くだけ泣けばあとには雨上りのような、はれやかさが生まれ出る。お光はそれを自分の体験で知っていた。
「さ、こっちをお向きなさいな、泣くのはよして。どうせ今夜は眠られないのだから、こっちを向いて話でもしましょう」
女はやがて泣き止んでそっと寝返りをうった。お光は涙にぬれた蒼ざめた、品のある、淋しい女の顔と勝気な瞳とを見た。そして、二人は互いに深いところで了解し合っていることも確かめられた。女は二十歳であった。母は七つの時、父は今年の夏死んでしまったと言った。家は能登の輪島の昔からの塗師であるのだが、父の死後一人の兄がなまじっかな才気に累《わずら》わされて、輪島塗を会社組織にしようと思い付いて会社を創立したが、その株金を使いこんで、もしその金が無い時には監獄へ入れられる――つまり、その金をこしらえるために嫁入前の身体を芸妓に売ろうとするのだと女は言った。女は三味線も琴も生花も茶も娘の頃に習い覚えているし、ことに鼓《つづみ》に対しては興味もあり、自信もあり、修行ももっと積みたい
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