という方」米子は知っていますよという風に微笑んだ。
「本当に?」
「ええ。戸外に待っていらしってよ」
「ちょっと行って来ます」平一郎は室を出た。長い土蔵の横の廊下を通るとき米子が「美しいお嬢さまね」と言った。戸外は薄暗くてうそ寒い晩景に軒並の電燈が輝いていた。
「平一郎さん」その声は涙を含んでいた。彼は縋《すが》りつくように近寄って立つ和歌子を黙って見た。長い間、二人は瞳を合わして放さなかった。万感が二人の胸に交流した。もう一切が二人には分った。薄暗い夕闇に白く浮かんだ和歌子の顔が微かに慄えていた。
「わたし、すまないことをしました」
「――」
「今日、わたしも学校で叱られて、そのうえ家《うち》の母さんを呼び出してすっかり話しされてしまいました」
(馬鹿野郎! 学校教師の馬鹿野郎! とう/\僕達を堕落生か何んかのように取り扱ってしまったな! 馬鹿! 恥じるがいい! 恥じるがいい! 僕達の今を見ろ! このようにお互いに純潔な立派な心で相対しているではないか!)
「母さんにあなたのことを訊かれたとき、わたしどんなに辛かったでしょう」
「僕、あなたのお母さんに会いましょう」
「いけません! 今だってわたし逃げるようにしてそっと来たのですから」
「僕は今日、体操の教師に擲られて、その上停学に処分されたっけ」
「――あなたの母さんに御心配かけてすまないわ」
「まだ話してないさ。どうかして話さずにすましたいけれど、きっと明日あたり呼びよせるかも知れないね」
彼は母の心を想像すると暗い鬱屈を感じた。もう街は暗かった。秋の夜が犇々《ひしひし》と二人の身に迫っていた。二人はこの寂しいうちにお互いの触れ合い結び合う生命を感じ合った。ああ、荒れすさぶ嵐よ、吹け! 猛り狂う運命の晦冥を自分達の新しい生命は照輝するであろう。
「怕《こわ》がっちゃだめですよ。僕だってじきに大きくなります。僕達は今こそまるで無力でも、いつまでも無力であるものですか。僕はたとえどんなことがあっても、僕はあなたなしに生きておれません。学校の奴等に僕達の心が分るものですか」
「――平一郎さん、何だかわたしがあなたを誘惑しているような、あなたの母さんにすまないような気がしますのよ」
「馬鹿な! 誘惑なら僕達二人とも誘惑しあったのだ」
「わたし、平一郎さん――」
ああ、何という奇蹟。昨日まで愛する者の唇を知らなかった
前へ
次へ
全181ページ中120ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島田 清次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング