」と言った。
「己だ! 己がさして来たのだ! 文句のある奴はここへ出て、直接《じか》に言え!」
 すると背後でわあっと喊声《かんせい》をあげた。平一郎はどこまで卑屈な奴だろうと思った。彼は堪《たま》らなくなって、展げられた傘をすぼめつつ、
「この傘は姉さんの傘だ! 己は貧乏で、姉さんのお古を使っているのだ! 分ったかい――君達は己を笑うことはよくないことだぞ!」
 そして彼はまだ何か言う奴があったら擲りつけてやろうと傘を逆手にもって睨みつけた。彼の恐ろしい有様にもう誰も言わなかったが、体操の教師が「大河、ちょっと来い」と彼を銃器室へ通ずる薄暗い廊下へ連れて行った。彼は窓から見える庭の植物園の白萩の花などを見ながら黙していた。分らないことを言ったら体操教師を擲りつけて、いっそ学校中の奴を死物狂いで擲りつける覚悟をしていた。
「一体どうしたのだ」
「僕の傘に書いてある文字をみんな笑うんです」
 背の低い髭を生やした教師は傘を拡げて見て、卑しい笑を浮かべて、すぐに厳粛らしい「教育家面」になった。
「こんなものは以後学校へさしてくることはならん」
「これより外に傘はありませんのです」
「なかったら一本買うがいい」
「都合がわるくて、今暫く買えないのです!」
「馬鹿いえ!」実際教師はそれをただ単なる平一郎の強情と思ったのである。また平一郎が与える旺盛な少年の精気は、傘一本買えない家庭の貧しさを連想させないものがあったことも確かである。
「それに――この傘は僕には大切な品です」
「何だ?」
 平一郎は言葉がなかった。言うことはあったが言葉がなかった。(ああ、冬子が残していった傘ではないか! 自分を愛してくれた美しい冬子のさした傘ではないか!)
「とにかくこの傘は、先生が預って置く」
 教師は傘をとりあげて去った。その傘はそれ限り平一郎の手に返らなかった。教師がその傘をどう処理したかは分らない。得意になってさして歩いたかも知れない。
 五年の野球の主将に眼鏡をかけた悪ずれのした原田という男がいた。その男が幾度も深井に手紙を送って「交誼《こうぎ》」を結ぼうと努めた。深井は平一郎にも言わず返事も出さなかった。手紙は露骨に脅迫的になって来た。深井は平一郎に打ち明けた。平一郎は原田に手紙を送った。運動場を過ぎて理科実験室の横手の古い池のある青桐の木の下であった。彼は「君は僕と深井との間柄
前へ 次へ
全181ページ中106ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島田 清次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング