」と言いかけているうちに冬子のことが湧いて来た。「……僕の知っている人がこの間東京へ行ったから、きっと今日は柩も見ているに違いないや」
「知っている人ってどなた?」
「それはね、僕の母さんの友達の冬子という女の人だよ」
「そう」和歌子は黙ってしまった。暫くたって「もう帰りましょうよ」と言い出した。
「どうして?」
「わたし、何んだかつまらなくなったの」そしてつけ加えた。
「家へいけないの、遅くなって」
「じゃ帰ろう」
二人はとぼ/\暗い野路を街の方へ帰って来た。明るみに出たとき、二人は何もかも忘れて笑い合った。二人が街角へ来たとき、街の方からけたたましい号外の鈴の音が近づいて来た。平一郎は飛びつくようにして一枚を奪った。
「和歌子さん!」
「何んですの」
「乃木将軍が殉死されたのだ!」
「そおお!」二人は号外の活字に鮮明にその事実を読み得た。
「平一郎さん!」接吻を知らない人にはただ溢れる熱情をしっかり双手を握り合うことによってのみ表わし得た。厳粛な死によって神聖にされ、祝福された、二人の恋であった。一つの時代より他の時代へ移りゆく時期に発生しがちな時代の弱点や人心の頽廃を乃木将軍の死は引きしめる力があった。二人の少年と少女にとっては生涯忘られない初恋の背景となった。
冬子が去ったあと、お光と平一郎の生活に外面上、何の変異も起こらなかった。お光は依然として勤勉な春風楼の裁縫師であり、好《よ》き母であり、穏やかな平和さを絶えず身辺に漲らしている小母さんであった。平一郎が冬子の別れに感じた悲哀もまだ直ちに彼の性格の上に表われるには彼の年が若かった。傷は伸び行く力によって何のあとかたもなく消え失せたように見えた。あるいは彼の性格の奥深くに潜んでいて時機を得て現われるのかも知れない。しかし、彼には学校があり、和歌子があり、また深井があった。秋の小学校の懇親会で和歌子が百人近い少女達の中から送る平一郎への微笑を見出したときの誇らしい歓喜。何も知らぬ級友《クラスメート》が和歌子を指さして「美しい《ビュウティフル》!」などと囁いているのを聞くおかしさと歓喜と大得意! そうして、そこには常に深井の優しい睫毛の長い涙に濡れたような瞳がいつも輝いていた。少女を愛する心、少年を愛する心、また愛され信頼されることによって奮い立ち、一切の責任を自負しなければ止まない心――それは彼の傲り
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