ことに原因しているのである。天野が綾子を辱しめなかったなら、綾子は真の恋人の大河俊太郎に嫁いだであろう。そしてそれは俊太郎にとっても綾子にとっても幸福であったろう。そしてお光もこうした苦艱な運命を受けないですみ、北野家もあるいはあれほど惨めに亡びなくてもよかったであろう。一切の運命の狂いの原因は、むかしの天野一郎、いまの天野栄介一人にある! ああ、しかもその忘れてはならぬ大悪魔の天野は冬子をも奪って行ったのである。
お光は合掌し祈るような敬虔な心で、ひとり子平一郎の成長を見まもらずにいられなかった。(天野に勝ち得る者は平一郎より外にない!)
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第六章
粛然とした闇の夜である。仲秋近い真夜中の冷気は津々と膚に寒い。暗い地上の物象は暗に吸い込まれて、ただ夜露が湿っぽく下りていた。六百人近い少年が身を潜めて整列していた。そこは広い高台の運動場である。露に湿れた草生《くさふ》が靴の下にあった。水中のように澄みわたった闇である。現世と思われない静けさが、六百の少年の心に浸み入ってくる。時折靴のすれる音、教師達の遠慮深げに歩む音、囁く音より外に断れぎれな蟋蟀《こおろぎ》の鳴く声がするのみである。
引き緊った静寂が、夜空をわたる幅の広い大砲の音で破られた。闇に人の動く気配がして運動場の正面にあたるところに二つの篝火《ががりび》がぱっと焔を揺らめかし燃えはじめた。火花を散らし燃ゆる篝火の焔の間に質素な祭壇が、光と暗の間に見えた。
「気をつけえ!」
少年は森厳な気におされて、心から身を引きしめ不動の姿に唇を閉じた。焔が夜風に煽られてゆら/\と流れる。黒い影が静かに祭壇に榊をささげる。教師が一人一人捧げる。生徒総代が同じく榊をささげる。その静黙の夜空を遠く大砲の音が、どおん、どおんと響いて来た。
「最敬礼!」闇に六百の少年は長い敬虔な敬礼を行なった。そして頭を挙げたときには、もう篝火の火は消えて、余燼が闇に散らばっているに過ぎなかった。寂しくて厳粛であった。一同は一人一人夜露に湿れた草原を通って裏門から街の方へ去りはじめた。平一郎もその中の一人であった。彼は幾度も空を仰いだが、彼の好きな星は一つも見えなかった。群集におされて街中へ出ると、両側の家々には黒い幔幕が引きまわされ、黒い章のついた提灯が軒並に吊されてあった。この夜の午前零時を合図に行なわ
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