。薄明りでよく判らなかった。よく見つめているうちに茂子は「おっ!」と叫んだ。その「おっ!」という茂子の叫びは複雑なたとえようのない叫びであった。絶望、怨恨、恐怖、驚異、呪い、それらを融け焦がしたただ一図な絶叫。温かいものは血であったのだ。小妻が、哀れな小妻がこの苦しかった人生の最後の名残に滴り流して行った恐ろしい悪血であったのだ! ああ、血であることを認識した瞬間、茂子は、薄明りの冷たい大気をとおして、天地の間より殷々《いんいん》として響き来る警鐘の音響が自分の聴覚に無限的な圧迫を与えて来るのを感じた。それは恐ろしく大きい音であった。彼女は両手でしっかり両耳をおさえ、聴くまいとして身を躍らして家のうちをその音から逃げようと駈けはじめた。
「じゃん/\/\/\/\/\/\/\/\………………………………………………………………………………………………………………………」
茂子は全身の力ですばらしい速力でどなりながら、四辺から圧迫してくる彼女の一人に聞える警鐘の音からのがれたい一念で、超人間的な力をもって戸障子を踏み破り家中を荒れ廻った。大騒乱が家中の者を一人残らず懶《ものう》い疲労した夢から奮い立ててしまった。白熱した昂奮が一しきり人々を内から照らしたのである。
その朝、茂子は内よりの火焔で焼かれた枯木のような肉体を荒縄で縛られて、二十幾年の苦しい生涯を生きた人生から切り離されるために、暗い狭い護送馬車に乗せられて郊外の狂人病院へ送られて行った。同じ朝、悪い病患に癈《すた》り切った全身の汚血を、惨めな三十幾年の生涯の最後の夜に、恐ろしい憎むべき、とても大地の上における事実と信じられないような暴虐を受け、そのためにその呪われた汚血を一斉に流出して、血みどろの中に死んで行った小妻の死骸が、小さい棺に入れられて春風楼の裏口から火葬場へ送られて行った。平一郎もお光もこの暗い未明を、がたがた胴顫《どうぶる》いをしている妓達の中に交って永遠の訣別に涙ぐんだのである。
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第四章
一夜のうちに起きた茂子の発狂と小妻の死は春風楼にとっては大きな事件であった。地面に深い底知れぬ淵が口をあいた恐ろしさである。しかし「人気」ということの心理を知っている女将は、女達に一切の沈黙を命じた。女達も沈黙を命じられなくとも恐ろしくて言う気になれなかった。そして、ど
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