白光の下に厭あな気になって暫くの休息と平和を享受していたのだのに、時子と菊龍の会話が彼女のこの暫くの平和をも擾乱する。茂子は顔をあげて菊龍の円々した顔を流し見た。そのひとときの視線は、彼女が経て来た、通らねばならなかった、蹂み躙られ、虐げられねばならなかった、傷つけられて来た、そしてこれをじっと忍耐して生きて来た、生涯の泣き明かしても足りない怨恨の全力量が恐ろしい淵を開いて睨みつけたものであった。茂子は無意識だったが、無神経な菊龍も吾知らずぞうっ[#「ぞうっ」に傍点]とするほど恐ろしかった。
「茂子さん」
「なんですの」
「何んですの、今のあなたの顔は」
「わたしがどうかしましたの」
「どうかしましたもないじゃありませんか、何んですの、その顔は。怖《おっ》かない顔をしてわたしを睨んでさ。わたしはお転婆ですけれど、あなたに恨まれる覚えはありませんよ。それともあったら言ったらいいじゃないの」
「――」
茂子ははっとした。いかにも自分は恐ろしい顔をしていたらしく思われたからだ。彼女は顔を伏せた。(ありますとも、ありますとも、恨むだけの覚えはあなたにありますとも。あなたは知らない許りですとも!)むく/\と憤怒が逆流しかけたが、(菊龍じゃない、あなたはほんのはしくれ、仇敵《かたき》のはしくれ)と何処か底に囁くものが彼女を再び沈鬱な柔順に返らしめた。
「堪忍して下さいな」下手に出られて、なおそれを根にもつほど悪人でもなかった。
「ほんとに気をつけて下さらないと困るわ」
それに加勢するようにお幸は煙管の金色を閃かして莨をはたいた。時子はさも世界にこれほど厭らしい、憎悪に堪えぬ生物はないかのように茂子を五分間許りも睨みつけていた。三人の女の客のない暇な間に湧き生ずる不平な倦怠の感情が、茂子一人に異常な憎悪を集注して消費の路を発見していた。彼女らは明らかに意識して自分達の虐げられている現実を知ってはいない。しかし純な少女の心と肉が今の様な状態に魂も肉体も変えるまでには無意識の裡に数知れない苦痛と悩みを忍耐して来たに相違はない。各人の素質には賢さや愚さの相違はあろう。その相違は男を弄ぶか、男を楽しむか、男に弄ばれるか、男を嫌うかのちがった道をとらせはしても、心の根底には、意識を超絶した奥深いところではくみ尽すことの出来ぬ悲哀と憎悪が凝結しているのだ。その感情は個人が感じる小さな感情
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