若芽
島田清次郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)真実《ほんと》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1−8−75]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ほろ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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    (一)[#「(一)」は縦中横]

 ぬつくりとした空気の中に、白い布を被せた寝棺が人々の眼に痛ましく写つた。紫檀の机の上に置かれた青銅の線香立には白い灰が堆高く積つて、夢の様に白い煙が立ち上つて抹香くさい香が庭前の青葉の間に流れ流れした。
『雨戸を繰りませうか。』
 今迄だまつて柱に依りかゝつて居た男が一座を見渡してかう言つた。其して一尺許りすいて居た一枚の雨戸を静かに開けた。電燈の光が広々とさあつと外にあふれて出て、露にうるんだ山茶花の葉の上を照した。心地よい冷つこい夜の気が一座の人の頬にはひやりと快かつた。
『未だ若いのに、世の中の楽しみと言ふ楽しみもしないで亡くなるなんて、ほんとに可哀想でたまりませんよ。』
 棺の主の病の為にわざ/″\看護に来て居る年の割に老けた女が沁々こういつた。大粒の涙がほろ/\と膝にふり落ちて居る。
『真実《ほんと》にね、清さんがこんなに成らうとは思はなかつたんですよ。』
 傍に眠さうに座つて居た病人の従姉妹達もくづれかかつた丸髪を気にし乍ら、心からと言つた風に相槌を打つた。
 二三年の内に見違へる様に美しくなつた之等《これら》の女連を見比べて居た此女の主人は
『が、死ぬ迄筆を離さなかつた。俺もつくづく可哀想に成つたて』
 と、じいつと棺にかぶさつた白い布を見詰めつつ、遠い/\昔の事の様に亡き人の追想に耽つた。
 一座の人々は一様に頭の髪のいつか白くなつた主人の顔を見守つててんでに亡き若人の達者であつた日の事を描いて見た。
 亡き若人は早稲田の学舎に学んだ身であつた。彼れの処女作が或る文学雑誌にかかげられた時、彼の恩師は偉大なる文学者の卵であると推賞した。而《そ》してきび/″\した筆致と幼き日を慕ふ情緒とを持つた大文学者の卵は夏になると、定《き》まつて東京から日本海の荒波の音の絶えぬ故郷へ皈《かえ》って来るのであつた。
 杉垣の或古びた家。家の隣は西洋草花などを作つてある花畑であつた。涼風のそよぐ夏の夕方なぞ白絣縮緬《しろがすりちりめん》の兵子《へこ》帯をしめた若い文士の姿がいつも杉垣の中に、大勢の従姉妹達に包まれて見えた。
 色の白いほつそりとした若い文士の其の頃の面差しは、従姉妹達の胸にくつきりと刻み込まれてあつた。
『あの時分は私等も若かつたわねエ!』
 三人の内の一番若い従妹がこう叫んで一座の人々を見渡した。
『あの時分のことを思ふと丸で夢の様ですわ。』
 と三人の子持に成つた一番上の従姉が心細そゝうに言つた。
 線香の白い灰がほろり/\とくづれて、やつれた主人の顔にくづれる度に淡い陰をつくつてゐた。
 主人は――行くりなくも気が狂つて死んだ亡き妻の青白い顔を思ひ浮かべて、白い布の寝棺の上に目を落じて、一人残つて行く自分の身を思つて見た。

    (二)[#「(二)」は縦中横]

 其処には長い/\年月があつた。昔の家、昔の庭、昔の木、それらが皆昔と云ふ字を持つ様に成つた。
 其一人息子の生れた頃には、新築の家は木の香が甘く漂ひ、庭には青苔も生えず南天の実が赤く実つて居た。杉の苗木がばらばらに門際に植えてあつたりした。主人は三拾幾つの壮年時代で、芸者上りの若い最愛の妻は二十三四の年頃であつた。秋の冷つこい気持のいゝ朝など、赤い手柄の細君の丸髪姿が滴る様な杉の木の間にちらついて居た。隣の遠い此の家のこととて、晴れやいだ嫁の笑ひ声が広い四辺《あたり》の自然の天地に展がつてゐた。
 気が狂つて死んだ妻の顔※[#感嘆符二つ、1−8−75]
 其の頃一人の息子はもう中学へ入つて居た。
 而して十年の年月が経つた。主人の頭には白毛が見え出した。息子が早稲田に在学の時分、主人は風邪の気分で臥《ふせ》つてゐた。其の時分未だ嫁に行かない末の従妹………が泊り合はせて看護してゐた。ぽつかりとした春の日の午後で裏の畑に茶の花が奇麗に咲いてゐるのが、硝子越で見えてゐた。
『伯父さん郵便。清さんからの。』
 と持つて来た郵便小包を受取つた主人は直様、紐を解き初めた。
『なんだらう』
『さあ、何んですかね。』
 中からは表装の奇麗な白いクロースの本が出て来た。
『や、清が著作したんぢや。』
 主人は赤い顔をにこつかせ乍ら、紅文字の『赤倉清』を指さした。表紙の上には同じ紅い文字で「若き日の影」としてあつた。
 主人は枯れた木の根から新しい若芽が萌え出たのだといつて喜んだ。若い文士の従妹も若芽の成長せんことを心から願つた。主人は其夜、風邪の直らぬのも気にしないで床上げをして
『若芽が出たのぢや。若芽が出たのぢや。』
と言つて隣近所へ赤飯をくばつた。ささやかな神棚には、仄暗い御燈明がともされて、主人は其の前に座つたまゝ、神前にそなへた白い表紙の其本をじいつと、いつ迄も/\見詰めて居た――。
 若い文士は何より読書が好きであつた。或夏、新しいハンモツクを買つて来て庭の森の木の間に結はえて置いた。夏の日の午後など緑陰の下にうつとりとハンモツクの上に眠つて居る若い人の白い顔が、本を持つた手と共に目に残つてゐた。
 何うかすると、若い者同士の従姉妹等を呼び寄せて、一緒にわあわあ騒ぐこともあつた。
 時折、西洋の赤い表紙の詩集なんかを読んで居ると、主人がひよつこり現はれて来て
『どんな意味かね。』などと
 問ひかけることもあつた。すると若い文士はハンモツクから寝てゐる身体を起しにかゝると
『いゝよ。』
 といつて笑つて行き過ぎるのを常として居た。
 そうした内に清は卒業する様になつた。清が卒業証書を握つて郷里に皈つた時、トランクの中には自分の名を記してある色んな形の本が三四冊もあつた。秋の夕日に清の乗つた俥《くるま》の輪がきら/\と輝いて、希望に充ちた清の眼には確かに美《うる》はしいものゝ一つであつた。
 其れは寝棺の置かれてある其の室であつた。主人と、叔母と、而《そ》うして三人の従姉妹等が寄つて居た。清は自分の身の一歩一歩若く盛んに成り行くに引きかへ、従姉妹等の二人迄が、子持に成つて居るのを不思議さうに眺めた。黒の紋付羽織、仙台平《せんだいひら》の袴、真つ白の胸紐と奇麗に分けた頭の髪とがかすかに打ちふるつて居る仏壇の御燈明に、一きは目立つて鮮やかであつた。卒業証書と四冊許りの書物とは亡き母の位牌にさゝげられてあつたのだ※[#感嘆符二つ、1−8−75]
 文壇の流行児、主人は若い時分の記憶を辿り乍らも紅葉露伴の名を思ひ浮べて居た。

    (三)[#「(三)」は縦中横]

 卒業後若い文士は東京に住居《すまひ》した。今日も明日も雨許りの六月頃主人は土産片手に息子の宿を訪ねた。長い間息子の便りが絶えて居たのである。
 丁度若い文士は不在であつた。出来合の障子は破れ目がたくさんあり、畳の縁は白くすれ切れて居り、むさくるしい六畳の部屋には所々はげかけた金文字の書いてある書物のぎつしりつめてある本箱とが見える丈だつた。
 主人は火の気の無い部屋につく然《ねん》と座つて居た。遠くの方からは電車の異様の響と人々のざはめきが込み合つて聞えて来て、雨の午後の日は陰気に暮れて入つた。手持無沙汰に本箱をいぢり廻してふと○の写真と○の手紙を見出した時、主人は「これだなあ。」と呟いた。彼は之でもう郷里への無沙汰も近頃の不規律もすつかり呑み込めたと言ふ様な気に成つた、が、独り長い/\時間を待つて居る内には自分の若い頃の濃厚な恋を思ひ起したりして、息子を悪いとはどうしても思へなかつた。
 九時頃、息子はたうとう帰つて来た!
『父さん済まなかつたね。』
 これが若い文士が父を見ての最初の言葉であつた。
『お前大分やつれたぢやないか。医者に見てもらはなくちや不可《いかん》。』
 主人は蒼ざめた息子の顔を心配さうに眺めてかう言つた。
『女に血をすはれちやいかんぜ。』
 これが主人の其の日の最後の言葉であつた、

 清は遂に吐血した※[#感嘆符二つ、1−8−75]
 古株に萌え出た若芽は又枯れかゝつた。
 主人は息子の病の為には全財産を投げ出してもと思つた。今息子に死なれては財産なんぞあつてもなくても同じことだと思つた。
 逗子の浜、大磯の海岸――朝となく夜となく、ぶら/″\逍遥ひ歩く若い文士の姿は、通り行く人々に悲しい事を思はせた。
 夫に別れた叔母は直ぐ看護の為に来た。そして病人の言ふに任せ、北国の郷里に帰ることにした。
 青白い夜のステーションの電燈の下に、たたずんで、人知れず見送つた。
 若い文士は電燈の下の○のうるんだ目と白い頸とを何時迄も/\忘れまいと思つた。

    (四)[#「(四)」は縦中横]

 土蔵の長持からは絹の蒲団が出されて、庭に面した八畳の部屋に敷かれた。白いシーツに白い枕、其の中に病人は仰向けに成つて寝て居た。黄色い水薬の半分許り入つて居る薬瓶や、白い模様のあるコツプが午後の日影の中に鮮やかに浮いて見えた。書きさしの原稿用紙と、黒塗の硯箱とがいつも枕元にきちんと並べてあつた。――
 おい/\に人の妻となり、母となつた従姉妹達は大きな丸髪に結つて、子供を連れて見舞なぞにやつて来た。
『清さん、此頃何もお書きぢやありませんか、』
 近く此間結婚して二月しか立たない末の従妹がこんなことを言つたりした。病人は只大きく女らしく成つて行く女達を不思議さうに眺めて居るより外に仕方がなかつた。
 新聞と創作と薬とで生きて居る病人にも移り行く時勢はまざ/″\と分つた。同窓で卒業した青年文士の二人迄が中央の文壇に頭角を現した事なども、朽ちて行く若い文士には悲しかつた。
 こうした悲しい時に限つて、彼は枕元の原稿を手に取つて、
『もう三百枚だ。』
 心から嬉しさうにかう叫ぶのであつた。自分の死と原稿の完成と、どつちが先だらうなどと考へ込むこともあつた。
『清さん、いつか見舞に来たKさんが落陽と言ふ長篇を出して、それあ大した評判ですよ。』
 と従姉妹の一人がわざ/″\新刊を持つて来たりした。
『お前そんなに無理して書かなくつたつていゝぢやないか。』
 若い文士の性急な努力を知つて居る主人は静かにかう言つた。
 軍人に成つて居る義従兄が見舞に来た時『清さんしつかりやりなされ、近頃赤倉清復活の声がすばらしいですよ。』
 などと、細つそりした若い文士の顔を気の毒さうに見守つた。
 かうして病床の三年は経つたのだつた。
 三年!長い/\三年であつた。若い文士は大なる一生の努力を以て、到頭一篇の創作を全うし得た。
『父さん、これを東京へ持つて行つて出版して下さい。』
 打ちふるふ手には五百枚許りの原稿があつた。主人も息子も原稿を真ん中において手を取り合つて泣き伏した。やつれ果てた顔、手、はてはくぼんだ眼、突き出た頬骨、主人は三年の苦しい息子の努力を思ひやつた。真つ白になつた頭の毛、しよぼ/″\になつた其の姿、息子の眼には老ひ行く父が痛ましかつた。
『もう大丈夫だ。』
 若い文士は原稿を見詰めて、涙を拭つた。
 看病の叔母は耳が遠くなつて仕舞つて、従姉妹はたまに見舞に来ても、もう小説の話などをしなくなつた。
『ほんとにうちの良人の意気地なしにはあきれますよ』
 赤児に乳をのまし乍らこんな風なことを口ぎたなく話しあつたりした。
 三年と云ふ年月が、あらゆる周囲の人々に一つ/\其の影をきざんで行くのであつた。

    (五)[#「(五)」は縦中横]

 低いさびた読経の声が、電燈が消されてから又朝迄続いた。一人二人目をさまして、ひそ/\と話し合ふ時分には遠くの方で井戸水を汲む音が聞えて来た。明方の寒さが戸の外から犇々《ひしひし》と迫つて来た。
『お天気
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