ざいました」と小声でいうて手ぬぐいを手渡しながら、一層かすかな声で「省作さん」というた。その声はさすがにふるえている。省作は、「はア」と答える声すら出ないで、ただおとよさんの顔をじっと見上げているうちに、座敷の方で、
「おとよおとよ」
 と呼ぶのはお袋の声だ。おとよさんは無言のまますっと身をかわして戸の内へはいる。はいってから、
「はアい」
 とあざやかな返辞をする。
「湯がぬるかないか。釜の下を見て上げてくれ」
「はい」
 おとよさんは再び出てきて、今度はさえざえした声で、
「省作さんおぬるいでしょう。ゆっくりはいっててください。今燃しますから……」
 人をはばからない声だ。薪を二、三本釜に入れて火を燃しつけた。省作はそれにはかまわず、湯を出て着物を着掛けている。
「省さんもう上がったんですか。ぬるかったでしょう」
 省作はいくじなく挨拶のことばも出ないが、帯を締めるにもことさらに手間どってもじもじしている。おとよさんはつと立ってきて髪の香りの鼻をうつまでより添う。そして声を潜めて、
「この間里から蜂屋柿《はちやがき》を送ってくれたから省さんに二つ三つあげますよ」
 おとよさんは冷た
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