くまい。こう口の底でいうて見る。ゆきたい心はかえって口底にも出てこず、行きたいなどとは決していわないが、その力は磐石糊《ばんじゃくのり》のように腹の底にひっついていて、どんなことしたって離れそうもしない。果てはつかれてぼんやりした気分になってると、
「省作省作、えい湯だど。ちょっともらっておいで。隣でも待ってるよ」
姉が呼ぶのに省作は無意識に立ってしまった。もうなんにも考えずに、背戸の竹山の雨の暗がりを走って隣へいってしまった。
湯は竈屋の庇《ひさし》の下で背戸の出口に据えてある。あたりまっ暗ではあれど、勝手知ってる家だから、足さぐりに行っても子細はない。風呂の前の方へきたら釜の火がとろとろと燃えていてようやく背戸の入り口もわかった。戸が細目にあいてるから、省作は御免下さいと言いながら内へはいった。表座敷の方では年寄りたちが三、四人高笑いに話してる。今省作がはいったのを知らない。省作は庭場の上がり口へ回ってみると煤《すす》けて赤くなった障子へ火影が映って油紙を透かしたように赤濁りに明るい。障子の外から省作が、
「今晩は、お湯をもらいに出ました」
「まア省作さんですかい。ちとお上がん
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