生命にいきかえったような思いである。おとよさんやおはまや、晴ればれと元気のよい、毛の先ほども憎気のない人たちと打ち興じて今日も稲刈りかということが、何となしうれしく楽しくなってきた。
 太陽はまだ地平線にあらわれないが、隣村のだれかれ馬をひいてくるものもある。荷車をひいてくるものもある。天秤《てんびん》の先へ風呂敷《ふろしき》ようのものをくくしつけ肩へ掛けてくるもの、軽身に懐手《ふところで》してくるもの、声高《こわだか》に元気な話をして通るもの、いずれも大回転の波動かと思われ、いよいよ自分の胸の中にも何かがわきかえる思いがするのである。
 省作は足腰の疲れも、すっかり忘れてしまい、活気を全身にたたえて、皆の働いてる表へ出て来た。

     二

「省作お前は鎌《かま》をとぐんだ。朝前《あさめえ》のうちに四|挺《ちょう》だけといでしまっておかねじゃなんねい。さっきあんなに呼ばったに、どこにいたんだい。なんだ腹の工合がわるい、……みっちりして仕事に掛かれば、大抵のことはなおってしまう。この忙しいところで朝っぱらからぶらぶらしていてどうなるか」
「省作の便所は時によると長くて困るよ。仕事の習い始めは、随分つらいもんだけど、それやだれでもだから仕方がないさ。来年はだれにも負けなくなるさ」
 兄夫婦は口小言《くちこごと》を言いつつ、手足は少しも休めない。仕事の習い始めは随分つらいもんだという察しがあるならば、少しは思いやってくれてもよさそうなものと思っても、兄や姉には口答えもできない、母に口答えするように兄や姉に口答えしたらたいへんが起こる。どこの家でもそうとはきまっていないが、親子と兄弟とは非常に感じの違うものである。兄には妻がありかつ年をとっている兄であるといよいよむずかしい。ことに省作の家は昔から家族のむずかしい習慣がある。
 省作はだまって鎌をとぐ用意にかかる。兄はきまった癖で口小言を言いつつ、大きな箕《み》で倉からずんずん籾《もみ》を庭に運ぶ。あとから姉がその籾を広げて回る。満蔵は庭の隅から隅まで、藁シブを敷いてその上に蓆《むしろ》を並べる。これに籾を干すのである。六十枚ほど敷かれる庭ももはや六分通り籾を広げてしまった。
 省作は手水鉢《ちょうずばち》へ水を持ってきて、軒口の敷居に腰を掛けつつ片肌脱ぎで、ごしごしごしごし鎌をとぐのである。省作は百姓の子でも、妙な趣
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