きに面白いことが云えるでしょうね。私ら様な無筆でもこんな時には心配も何も忘れますもの。政夫さん、あなた歌をおやんなさいよ」
「僕は実は少しやっているけど、むずかしくて容易に出来ないのさ。山畑の蕎麦の花に月がよくて、こおろぎが鳴くなどは実にえいですなア。民さん、これから二人で歌をやりましょうか」
 お互に一つの心配を持つ身となった二人は、内に思うことが多くてかえって話は少ない。何となく覚束《おぼつか》ない二人の行末、ここで少しく話をしたかったのだ。民子は勿論のこと、僕よりも一層話したかったに相違ないが、年の至らぬのと浮いた心のない二人は、なかなか差向いでそんな話は出来なかった。しばらくは無言でぼんやり時間を過ごすうちに、一列の雁《がん》が二人を促すかの様に空近く鳴いて通る。
 ようやく田圃へ降りて銀杏の木が見えた時に、二人はまた同じ様に一種の感情が胸に湧いた。それは外でもない、何となく家に這入《はい》りづらいと言う心持である。這入りづらい訣はないと思うても、どうしても這入りづらい。躊躇《ちゅうちょ》する暇もない、忽《たちまち》門前近く来てしまった。
「政夫さん……あなた先になって下さい。
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