て、失神するほどの思いであれど、今目の前で母の嘆きの一通りならぬを見ては、泣くにも泣かれず、僕がおろおろしている所へ兄夫婦が出てきた。
「お母さん、まアそう泣いたって仕方がない」
と云えば母は、かまわずに泣かしておくれ泣かしておくれと云うのである、どうしようもない。
その間で嫂が僅《わずか》に話す所を聞けば、市川の某《それがし》という家で先の男の気性も知れているに財産も戸村の家に倍以上であり、それで向うから民子を強《た》っての所望、媒妁人《なこうど》というのも戸村が世話になる人である、是非やりたい是非往ってくれということになった。民子はどうでもいやだと云う。民子のいやだという精神《こころ》はよく判っているけれど、政夫さんの方は年も違い先の永いことだから、どうでも某の家へやりたいとは、戸村の人達は勿論親類までの希望であった。それでいよいよ斎藤のおッ母さんに意見をして貰うということに相談が極り、それで家のお母さんが民子に幾度意見をしても泣いてばかり承知しないから、とどのつまり、お前がそう剛情はるのも政夫の処へきたい考えからだろうけれど、それはこの母が不承知でならないよ、お前はそれでも今度の縁談が不承知か。こんな風に言われたから、民子はすっかり自分をあきらめたらしく、とうとう皆様のよい様にといって承知をした。それからは何もかも他《ひと》の言うなりになって、霜月|半《なかば》に祝儀をしたけれど、民子の心持がほんとうの承知でないから、向うでもいくらかいや気になり、民子は身持になったが、六月《むつき》でおりてしまった。跡の肥立ちが非常に悪くついに六月十九日に息を引き取った。病中僕に知らせようとの話もあったが、今更政夫に知らせる顔もないという訣から知らせなかった。家のお母さんは民子が未だ口をきく時から、市川へ往って居って、民子がいけなくなると、もう泣いて泣いて泣きぬいた。一口まぜに、民子は私が殺した様なものだ、とばかりいって居て、市川へ置いたではどうなるか知れぬという訣から、昨日車で家へ送られてきたのだ。話さえすれば泣く、泣けば私が悪かった悪かったと云って居る。誰にも仕様がないから、政夫さんの所へ電報を打った。民子も可哀相だしお母さんも可哀相だし、飛んだことになってしまった。政夫さん、どうしたらよいでしょう。
嫂《あによめ》の話で大方は判ったけれど、僕もどうしてよいやら殆ど
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