したようだった、其時のあの女の顔をおれは未だに覚えてる、其の後、家のおやじに話して小作米の残り三俵をまけてやった、心懸けがよかったからあの女も今はあんなに仕合せをしてる。
 これでは話が横道へ這入《はい》った、それからおれが松尾へ往きついてもまだ日が出なかった、松尾は県道筋について町めいてる処《ところ》へ樹木に富んだ岡を背負ってるから、屋敷構《やしきがまえ》から人の気心も純粋の百姓村とは少し違ってる、涼しそうな背戸山では頻《しき》りに蜩《ひぐらし》が鳴いてる、おれは又あの蜩の鳴くのが好きさ、どこの家でも前の往来を綺麗《きれい》に掃いて、掃木目《ほうきめ》の新しい庭へ縁台を出し、隣同志話しながら煙草など吹かしてる、おいらのような百姓と変らない手足をしている男等までが、詞《ことば》つかいなんかが、どことなし品がえい、おれはそれを真似ようとは思わないけど、横芝や松尾やあんな町がかった所へいくと、住居の様子や男女の風俗などに気をつけて見るのが好きだ。
 兼鍛冶のとこへ往ったら、此節は忙しいものと見えて、兼公はもう鞴場《ふいごば》に這入って、こうこうと鞴の音をさして居た、見ると兼公の家も気持がよ
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