余地はないのであった。
昨夜からの様子で冷遇は覚悟していても、さすが手持無沙汰な事|夥《おびただ》しい、予も此年をしてこんな経験は初めてであるから、まごつかざるを得ない訳だ。漸く細君が朝飯を運んでくれたが、お鉢という物の上に、平べったいしおぜのお膳、其に一切を乗せ来って、どうか御飯をという。細君は総《すべ》てをそこに置いたまま去って終う、一口に云えば食客の待遇である。予はまさかに怒る訳にもゆかない、食わぬということも出来かねた。
予が食事の済んだ頃岡村はやってきた。岡村の顔を見れば、それほど憎らしい顔もして居らぬ。心あって人を疎ましくした様な風はして居らぬ。予は全く自分のひがみかとも迷う。岡村が平気な顔をして居れば、予は猶更平気な風をしていねばならぬ。こんな馬鹿げた事があるものか。
「君此靄※[#「※」は「涯−さんずい」、第3水準1−14−82、86−15]は一寸えいなア」
「ウン親父が五六日前に買ったのだ、何でも得意がっていたよ」
「未だ拝見しないものがあったら、君二三点見せ給えな」
「ウンあんまり振るったのもないけれど二つ三つ見せよか」
岡村は立つ。予は一刻も早く此《ここ》に居る苦痛を脱したく思うのだが、今日昼前に渋川がくるかも知れないと思うままに、今暫くと思いながら、心にもない事を云ってる。こんな時に画幅など見たって何の興味があろう。岡村が持って来た清朝《しんちょう》人の画を三幅程見たがつまらぬものばかりであった、頭から悪口も云えないで見ると、これも苦痛の一つで、見せろなど云わねばよかったと後悔する。何もかも口と心と違った行動をとらねばならぬ苦しさ、予は僅かに虚偽の淵《ふち》から脱ける一策を思いつき、直江津なる杉野の所へ今日行くという電報を打つ為に外出した。帰ってくると渋川が来て居るという。予は内廊下を縁に出ると、驚いた。挨拶にも見えないから、風でもひいてるのかと思うていた岡村の親父は、其所《そこ》の小座敷で人と碁を打って居る。予はまさかに碁を打ってる人に挨拶も出来ない。しかしどうしても其の前を通らねばならない。止《や》むを得ず黙って通ったが、生れて覚えのない苦痛を感じた。軽侮するつもりではないかも知れねど、深い不快の念は禁じ得なかった。
予は渋川に逢うや否や、直ぐに直江津に同行せよと勧め、渋川が呆《あき》れてるのを無理に同意さした。茶を持ってきた岡村
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