に西行汽車の柏崎発は何時かと云えば、十一時二十分と十二時二十分だという。それでは其十一時二十分にしようときめる。岡村はそれでは直ぐ出掛けねばいかんと云う。
 岡村は義理にも、そんなに急がんでもえいだろう位は云わねばならぬ所だが、それを云わなかったところを見ると、岡村家の人達は予を余程厄介視したものであろう。予は岡村の家を出ずる時、誰とも別れの挨拶をしなかった。おしろいをこってり化粧した細君が土間に立ちながら、二つ三つお辞儀をしたのみであった。
 岡村は吾々より先きに門に出て居った。それでも岡村は何と思うてか、停車場では入場券まで買うて見送ってくれた。
 予は柏崎停車場を離れて、殆ど獄屋を免れ出た感じがした。岡村が予に対した仕向けは、解ってるようで又|頗《すこぶ》る解らぬ所もある。恋は盲目だという諺《ことわざ》もあるが、お繁さんに於《お》ける予に恋の意味はない筈なれども、幾分盲目的のところがあったものか、とにかく学生時代の友人をいつまで旧友と信じて、漫《みだり》に訪問するなどは警戒すべきであろう。聞けば渋川も一寸の事ではあるが大いに不快であったとのことである。
[#天より31字下げ、地より2字上げで](明治四十一年九月)



底本:「野菊の墓」新潮文庫、新潮社
   1955(昭和30)年10月25日発行
   1993(平成5)年6月5日第97刷
入力:大野晋
校正:大西敦子
2000年6月19日公開
2002年1月4日修正
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