上心の弱い人は、生命を何物よりも重んずることになる。生命を極端に重んずるから、死の悲哀が極度に己れを苦しめる。だから向上心の弱い人には幸福はないということになる。宗教の問題も解決はそこに帰するのであろう、朝《あした》に道を聞いて夕ベに死すとも可なりとは、よく其精神を説明して居るではないか。
岡村は欠《あく》びを噛《か》みしめて、いや有がとう、よく解った。お繁さんは兄の冷然たる顔色に落胆した風で、兄さんは結婚してからもう駄目よと叫んだ。岡村は何《な》に生意気なことをと目に角立てる。予は突然大笑して其いざこざを消した。そうして話を他へ転じた。お繁さんは本意なさそうにもう帰りましょうと云い出して帰る。予はお繁さんと岡村とあべこべなら面白いがな、惜しい事じゃと考えたのであった。
予は寝られないままに、当時の記憶を一々頭から呼び起して考える。其《それ》を思うとお繁さんの居ない今日、岡村に薄遇されたのに少しも無理はない。予も腹のどん底を白状すると、お繁さんから今年一月の年賀状の次手《ついで》に、今年の夏も是非柏崎へお越しを願いたい。今一度お目に掛って信仰上のお話など伺いたく云々《うんぬん》とあったに動かされてきたと云ってもよい位だ。其に来て見れば、お繁さんが居ないのだから……。お繁さんは結婚したのだろう、どんな人と結婚したか。お繁さんに不足のない様な人は無造作にはあるまい。岡村に一つ聞いて見ようか、いや聞くまい、明日は早々お暇《いとま》としよう……。
いつしか疲れを覚えてとろとろとしたと思うと、さすがに田舎だ、町ながら暁を告る鶏の声がそちこちに聞える。あ鶏が鳴くわいと思ったと思うと、其のままぐっすり寝入って、眼の覚めた時は、九時を過ぎている。朝日が母屋の上からさしていて、雨戸を開けたらかっと眼のくらむ程|明《あかる》かった。
これから後のことを書くのは、予は不快に堪えない。しかし書かねば此文章のまとまりがつかぬ、いやでも書かねばならない。予は自分で雨戸をくり、自分で寝具を片づけ、ぼんやり障子の蔭《かげ》に坐して庭を眺めていた。岡村は母屋の縁先に手を挙げたり足を動かしたりして運動をやって居る。小女が手水《ちょうず》を持ってきてくれた。岡村は運動も止《や》めて家の者と話をして居るが、予の方へ出てくる様子もない。勿論《もちろん》茶も出さない。お繁さんの居ない事はもはや疑うべき
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