奈々子
伊藤左千夫

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)頭《つむり》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66、35−9]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)つぶ/\綛の
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

 其日の朝であった、自分は少し常より寢過して目を覺すと、子供達の寢床は皆殼になつてゐた。自分が嗽に立つて臺所へ出た時、奈々子は姉なるものゝ大人下駄を穿いて、外とへ出ようとする處であつた。凉爐の火に煙草を喫つてゐて、自分と等しく奈々子の後姿を見送つた妻は、
『奈々ちやんはねあなた、昨日から覺えてわたい、わたいつて云ひますよ。
『さうか、うむ。
 答へた自分も妻も同じやうに、愛の笑が自から顏に動いた。
 出口の腰障子につかまつて、敷居を足越《あご》さうとした奈々子も、振返りさまに兩親を見てにつこり笑つた。自分は其儘外へ出る。物置の前では十五になる梅子が、今※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66、35−9]箱から雛を出して追込に入れてゐる。雪子もお兒も如何にも面白さうに笑ひながら※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66、35−10]を見て居る。
 奈々子もそれを見に降りて來たのだ。
 井戸端の流し場に手水を濟した自分も、※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66、35−12]に興がる子供達の聲に引かされて、覺えず彼等の後ろに立つた。先に父を見つけたお兒は、
『おんちやんにおんぼしんだ、おんちやんにおんぼしんだ。
と叫んで父の膝に取りついた。奈々子もあとから、
『わたえもおんも、わたえもおんも。
と同じく父に取りつくのであつた。自分はいつもの如くに、おんぼといふ姉とおんもといふ妹とを一所に背負うて、暫く彼等を笑はせた。梅子が餌を持出してきて雛にやるので再び四人の子供は追込みの前に立つた。お兒が、
『おんちやんおやとり、おんちやんおやとり。
といふから、お兒ちやん、おやとりがどうしたかと聞くと、お兒ちやんは、おやとりつち詞を此頃覺えたからさういふのだと梅子が答へる。奈々子は大きい下駄に疲れたらしく、
『お兒ちやんのかんこ、お兒ちやんのかんこ。
と云ひ出した。お兒の下駄を借りたいと云ふのである。父は幼き姉を賺かして其下駄を借さした。お兒は一つ上の姉でも姉は姉らしいところがある。小さな姉妹は下駄を取替へる、奈々子は滿足の色を笑に湛はして、雪子とお兒の間に挾まりつゝ雛を見る。つぶ/\綛の單物に桃色の彦帶を後に垂れ、小さな膝を折つて其兩膝に罪のない手を乘せて蹲踞んで居る。雪子もお兒もながら、一番小さい奈々子の風が殊に親の目を引くのである。虱が湧いたとかで、頭《つむり》をくり/\とバリガンで刈つて終うた、頭つきがいたづらさうに見えて一層親の目に可愛ゆい。妻も臺所から顏を出して、
『三人が能く並んで蹲踞んでること、奈々ちやんや※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66、37−1]が面白いかい奈々ちやんや。
 三兒は一樣に振返つて母と笑ひあふのである。自分は胸に動悸するまで、此光景に深く感を引いた。
 此日は自分は一日家に居つた。三兒は遊びに飽きると時々自分の書見の室に襲うてくる。
 三人が菓子を貰ひに來る、お兒が一番無遠慮にやつてくる。
『おんちやん、おんちやん、かちあるかいかち、奈子ちやんがかちだつて。
 續いて奈々子が走り込む。
『おつちやんあつこ、おつちやんあつこ、はんぶんはんぶん。
と云ひつゝいきなり父に取りつく [#あきはママ]奈々子が菓子ほしいといふ時に、父は必ずだつこしろ、だつこすれば菓子やるといふ爲に、菓子のほしい時彼はあつこ/\と叫んで父の膝に乘るのである。一つでは餘り大きいといふので、半分づゝだよと云ひ聞せられる爲に、自分からはんぶんはんぶんといふのである。四才のお兒はがつこといひ、三才の奈々子はあつこと云ふ。年の違ひもあれど、いくらか性質の差も判るのである。六才の雪子は二人の跡から這入つてきて、只しれ/\と笑つて居る。菓子が三人に分配されると、直ぐに去つて終ふ。風の凪いだやうに跡は靜かになる。靜かさが少しく長くなると、どうして遊んでるかなと思ふ。さう思つて庭を見ると、いつの間にか三人は庭の明地に來て居つた。くり/\頭に桃色の彦帶が一人、角子頭に卵色の兵兒帶が二人、何が面白いか笑もせず聲も立てず、何かを摘んでる樣子だ。自分は只頭りの動くのと彦帶のふら/\するのを暫く見詰めて居つた。自分も聲を挂けなかつた、三人も菓子とも思はなかつたか、やがてはた/\足音がするから顏を出して見ると、奈々子が後になつて三人が手を振つて駈ける後姿が目にとまつた。
 御飯が出來たからおんちやんを呼んでお出と彼等の母が云ふらしかつた。奈々ちやんお先にお出よ奈々ちやんと雪子が叫ぶ。幼き二人の傳令使は見る間に飛込んで來た。二人は同體に父の背に取りつく。
『おんちやん御はんおあがんなさいつて。
『おはんなさい、ハヽヽヽヽ
 父は兩手を廻し、大きな背に又二人を負んぶして立つた。出口が狹いので少し體を横に漸く通る窮屈さを一層興がつて、二人は笑ひ叫ぶ。父の背を降りない内から、二人でおんちやんを呼んできたと母に云ふ騷ぎ、母は猶立働いてる。父と三兒は向合に食卓についた。お兒は四つでも、箸持つことは、まだ本當でない、少し見ないと左手に箸を持つ、又お箸の手が違つたよと云へば、直ぐ右に直すけれど、少しすると又左に持つ、屡注意して右に持たせる位であるから、飯も盛にこぼす。奈々子は一年十ヶ月なれど、箸持つ手は始めから正しい。食べ物に着物を汚すことも少ないのである。姉等が坐るに狹いと云へば、身を片寄せて席をゆづる、彼れの母は彼れを熟視して、奈々ちゃんは顏構からしてしつかりして居ますねいといふ。
 末子であるから埒もなく可愛といふ譯ではないのだ。此の子はと思ふのは彼れの母許りではなく、父の目にもさう見えた。
 午後は奈々子が一晝寢してからであつた、雪子もお兒も鞦韆に飽き、寢覺めた奈々子を連れて、表の方に居る樣子であつたが、格子戸をからり明けて駈け上りざまに三兒は吾勝ちと父に何か告げんとするのである。
『お父さん金魚が死んだよ、水鉢の金魚が。
『おんちやん金魚がへんだ。金魚がへんだよおんちやん。
『へんだ、おつちやんへんだ。
 奈々子は父の手を取つて頻りに來て見よとの意を示すのである。父は只氣が弱い、口で求めず手で引立てる奈々子の要求に少しも逆ふことは出來ない。父は引かるゝまゝに三兒の後から表にある水鉢の金魚を見に往つた。五六匹死んだ金魚は外に取捨てられ、殘つた金魚はなまこの水鉢の中にくる/\輪をかいて廻つて居た、水は青黒く濁つてる。自分は早速新しい水をバケツに二はい汲み入れてやつた。奈々子は水鉢の縁に小さな手を掛け、
『きんごおつちやんきんご、おつちやんきんご。
『もう金魚へにやしないねいねいおんちやん、へにやしないねい。
 三兒は一時金魚の死んだのに驚いたらしかつた。父は更に金魚を買ひ足してやることを約束して座に返つた。三人は猶頻りに金魚をながめて年相當な會話をやつてるらしい。

 後から考へた此時の状態を何と云つたらよいか。無邪氣な可憐な、殆ど神に等しき幼きものゝ上に、悲慘なる運命は已に近く迫りつゝありしことを、どうして知り得られよう。
 くり/\と毛を刈つたつむり、つや/\と肥つた其手や足や、撫でゝさすつて、はては舐りまはしても飽きたらぬ悲しい奈々子の姿は、それきり父の目を離れて終つた。おんもと云ひ、あつこと云ひ、おつちやんと云つた其悲しい聲は永遠に父の耳を離れて終つた。
 此日の薄暮頃に奈々子の身には不測の禍があつた。さうして父は奈々子が此世を去る數時間以前奈々子に別れて終つた、然かも奈々子も父も家に居つて………。いつもならば、家に居れば僅かの間見えなくとも、必ず子供はどうしたと尋ねるのが常であるのに、其日の午後は、どいふものか數時間の間子供をたづねなかつた。跡から思ふと、闇の夜に顏も見得ず別れて終つたやうな氣がしてならない。

 一つの乳牛に消化不良なのがあつて、今井獸醫の來たのは、井戸端に夕日の影の薄い頃であつた。自分は今井と共に牛を見て、牧夫に投藥の方法など示した後、今井獸醫が、何か見せたい物があるからと云はるゝまゝに、今井の宅に打連れて往くことにした。自分が牛舍の流しを出て臺所へあがり、奧へ通つた内に梅子と女中は夕食の仕度に忙しく、雪子もお兒もうろ/\遊んでゐた、民子も秋子も鞦韆に遊んでゐた。只奈々の姿が見えなかつた。それでも自分は敢て怪みもせず、今井と共に門を出た、今井の宅は十二三分間で往かれる所である。
 今井の宅には洋燈もついて外に知人も一人居つた。上がつてから凡そ十五六分も過ぎたと思ふ時分に、あわたゞしき迎へのものは、長女と女中であつた。
『お父さん大へんです、奈々ちゃんが池へ落ちて………。
 それやつと口から出たか出ないかも覺えがなく、人を押しのけて飛出した。飛び出でる間際にも、
『奈々子は泣いたかツ
と問うたら、長女の聲で未だ泣かないと聞えた。自分は其不安な一語を耳に挾さんで、走りに走つた。走れば十分とはかゝらぬ間なれど肥つた自分には息切れがして殆どのめりさうである。漸く家近く來ると梅子が走つてきた。自分は又
『奈々子は泣いたか。
『まだ泣かない、お父さん未だ醫者も來ない。
 自分は周章てながらも六つかしいなと腹に思ひつゝ猶一息と走つた。
 わや/\と騷がしい家の中は薄暗い。妻は臺所の土間に藁火を焚いて、裸體の死兒を温ためようとしてゐる。入口には二三人近所の人もゐたやうなれど誰だか別らぬ。民子、秋子、雪子等の泣聲は耳に入つた。妻は自分を見るや泣聲を絞つて、何だつてもう浮いてゐたんですもの、どうしてえいやら判らないけれど、隣の人が藁火で暖めなければつて云ふもんですから、これで生き返へるでせうか………………。自分は直に奈々子を引取つた。引取ながらも醫者は何と云つた、坂部は居たかと云へば、坂部は家に居つて直ぐくると云ひましたと返辭したのは誰だか判らなかつた。
 水に濡れた紙の如く、とんと手ごたへがなく、頸も手も腰にも足にも、いさゝかだも力といふものはない。父は冷えた吾が子を素肌に押し當て、聞き覺えの覺束なき人工呼吸を必死と試みた。少しも驗はない。見込のあるものやら無いものやら、只わく/\するのみである。かういふ内醫者はどうして來ないかと叫ぶ。仰向けに寢かして心臟音を聞いても見た。素人ながらも、何等生ある音を聞き得ない。水は吐いたかと聞けば、吐かないといふ、併し腹に水のある樣子もない。どうする詮も知らずに着物を暖めてはあてがひ、暖めてはあてがつてるのみ、家中皆立つて手にする事がなくうろ/\してる。妻は叫ぶ、坂部さんが居なければ木下さんへ往けつてこかねい、坂部さんはどうしたんだらうねい。坂部さんへ又見にゆきましたといふものがあつた。妻は上げた時直ぐに奈アちやんやつて呼んだら、どうも返辭をしたやうであつたがねい、返辭ではなかつたのか知ら………。なんだつて浮いてゐたのを見つけたんだもの、よもや池とは思はないから、一番あとで池を見たら浮いてゐたんですもの、と云ふ。
 それでも息を吹返すこともやと思ひながら、浮いて居つたといふ事は、落ちてから時間のあることを意味するから、妻は屡それを氣にする。
『坂部さんが、坂部さんが、
といふ聲は、家中に息を殺させた。それで醫者ならば生返らせる事が出來るかとの一縷の望をかけて、一齊に醫者に思ひをあつめた。自分は其時までも、肌に抱締め暖めてゐた子供を、始めて蒲團の上へ放した。冷然たる醫師は、一二語簡單な挨拶をしながら診察にかゝつた。併し診察は無造作であつた、聽診器を三四ヶ所胸にあてがつて見た後、瞳を見、眼瞼を見、それから形許りに人工呼吸を試み、注射をした、肛門を見て、死後三十分位を經過して居ると云ふ。この一語は診察
次へ
全2ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
伊藤 左千夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング