暗い。妻は臺所の土間に藁火を焚いて、裸體の死兒を温ためようとしてゐる。入口には二三人近所の人もゐたやうなれど誰だか別らぬ。民子、秋子、雪子等の泣聲は耳に入つた。妻は自分を見るや泣聲を絞つて、何だつてもう浮いてゐたんですもの、どうしてえいやら判らないけれど、隣の人が藁火で暖めなければつて云ふもんですから、これで生き返へるでせうか………………。自分は直に奈々子を引取つた。引取ながらも醫者は何と云つた、坂部は居たかと云へば、坂部は家に居つて直ぐくると云ひましたと返辭したのは誰だか判らなかつた。
 水に濡れた紙の如く、とんと手ごたへがなく、頸も手も腰にも足にも、いさゝかだも力といふものはない。父は冷えた吾が子を素肌に押し當て、聞き覺えの覺束なき人工呼吸を必死と試みた。少しも驗はない。見込のあるものやら無いものやら、只わく/\するのみである。かういふ内醫者はどうして來ないかと叫ぶ。仰向けに寢かして心臟音を聞いても見た。素人ながらも、何等生ある音を聞き得ない。水は吐いたかと聞けば、吐かないといふ、併し腹に水のある樣子もない。どうする詮も知らずに着物を暖めてはあてがひ、暖めてはあてがつてるのみ、家中皆立つて手にする事がなくうろ/\してる。妻は叫ぶ、坂部さんが居なければ木下さんへ往けつてこかねい、坂部さんはどうしたんだらうねい。坂部さんへ又見にゆきましたといふものがあつた。妻は上げた時直ぐに奈アちやんやつて呼んだら、どうも返辭をしたやうであつたがねい、返辭ではなかつたのか知ら………。なんだつて浮いてゐたのを見つけたんだもの、よもや池とは思はないから、一番あとで池を見たら浮いてゐたんですもの、と云ふ。
 それでも息を吹返すこともやと思ひながら、浮いて居つたといふ事は、落ちてから時間のあることを意味するから、妻は屡それを氣にする。
『坂部さんが、坂部さんが、
といふ聲は、家中に息を殺させた。それで醫者ならば生返らせる事が出來るかとの一縷の望をかけて、一齊に醫者に思ひをあつめた。自分は其時までも、肌に抱締め暖めてゐた子供を、始めて蒲團の上へ放した。冷然たる醫師は、一二語簡單な挨拶をしながら診察にかゝつた。併し診察は無造作であつた、聽診器を三四ヶ所胸にあてがつて見た後、瞳を見、眼瞼を見、それから形許りに人工呼吸を試み、注射をした、肛門を見て、死後三十分位を經過して居ると云ふ。この一語は診察の終りであつた。多くの姉妹等は今更の如く聲を立てゝ泣く、母は顏を死兒に押當てゝ打伏して終つた。池があぶないあぶないと思つて居ながら、何といふ不注意な事をしたんだらう。自分も今更の如く我が不注意であつた事が悔いられる。醫師は其内歸つて終はれた。
 近所の人々が來てくれる、親類の者も寄つてくる。來る人毎に同じやうに顛末を問はれる。妻は人のたづねに答へないのも苦しく、答へるのは猶更苦しい。勿論問ふ人も義理で問ふのであるから、深くは問ひもせぬけれど、妻は堪らなくなつて、
『今夜わたしはあなたと二人きりで此兒の番をしたい。
と云ひだす。自分はさうもいくまいが、兎に角此所へは置けない、奧へ床を移さねばならぬと云つて、奧の床の前へ席を替さした。枕上に經机を据ゑ、線香を立てた。奈々子は死顏美しく眞に眠つてるやうである。線香を立てゝ死人扱ひをするのが可哀相でならないけれど、線香を立てないのも無情のやうに思はれて、線香は立てた。それでも燈明を上げたらといふ親戚の助言は聞かなかつた。未だ此の世の人でないとはどうしても思はれないから、燈明を上げるだけは今夜の十二時過からにしてと云つた。
 親戚の妻女誰彼も通夜に來てくれた。平生愛想笑ひをする癖が、弔み詞の間に出るのを強ひて噛殺すのが苦しさうであつた。近所の者の此際の無駄話は實に厭であつた。寄つてくれた人達は當然の事として、診斷書の事、死亡屆の事、埋葬證の事、寺の事など忠實に話してくれる。自分はしやう事なしに、宜しく頼むと云ては居るものゝ、只管眠つてるやうに、花の如く美しく寢て居る此兒の前で、葬式の話をするのは情なくて堪らなかつた。投出してる我が兒の足に自分の手を添へ、其足を我が顏へひしと押當てゝ横顏に伏してゐる妻は、埋葬の話を聞いてるか聞いてゐないか、只悲しげに力なげに、身を我兒の床に横へて居る。手にする事がなくなつて、父も母も心の思ひは愈※[#二の字点、面区点番号1−2−22、43−16]亂れるのである。
 我が子の寢顏につく/″\見入つて居ると、自分はどうしても此兒が呼吸してるやうに思はれてならない。胸に覆うてある單物の或點がいくらか動いて居つて、それが呼吸の爲めに動くやうに思はれてならぬ。親戚の妻女が二つになる子供をつれてきて、そこに寢せてあれば、其兒の呼吸の音が、どうかすると我が兒のそれのやうに聞える。自分は堪へられなくなつて、覆ひ
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