の着物を除け、再び我兒の胸に耳をひつつけて心臟音を聞いて見た。
 何程念を入れて聞いても、絶對の靜かさは、到底永久の眠りである。再び動くといふことなき永久の靜かさは、實に冷刻の極みである。
 永久なる眠も冷刻なる靜かさも、猶此儘我が目に留め置くことが出來るならば、千重の嘆きに幾分の慰藉はある譯なれど、殘酷にして淺薄な人間は、それ等の希望に何の工風を費さない。
 どんなに深く愛する人でも、どんなに重く敬する人でも、一度心臟音の停止を聞くや、猶幾時間も立たない内から、埋葬の協議にかゝる。自分より遠けて、自分の目より離さんと工風するのが人間の心である。哲學がそれを謳歌し、宗教がそれを讚美し、人間の事はそれで遺憾のないやうに説いてゐる。
 自分は今つく/″\と我が子の死顏を眺め、さうして三日の後此の子がどうなるかと思うて、眞に我心の薄弱が情なくなつた。我生活の虚僞殘酷に呆れて終つた。近隣親族の徒が、此美しい寢顏の前で埋葬を議することを、痛く不快に感じた。自分もつまりはそれに從ふの外ないのであつて見れば、自分も矢張り世間一流の人間に相違ないのだ。自分はかう考へて、浮ぶことの出來ない、到底出づることの出來ない、深い悲みの淵に沈んだやうな氣がした。今の自分は只々自分を悔い、自分を痛め、自分を損じ苦めるのが、いくらか自分を慰めるのである。今の自分には、哲學や宗教やは悉く餘裕のある人共の慰み物としか思へない。自分も今まではどうかすると、哲學とか宗教とか云つて、自分を欺き人を欺いたことが、しみ/″\耻かしくてならなくなつた。
 眞に愛するものを持たぬ人や、眞に愛するものを死なした事のない人に、どうして今の自分の悲痛が解るものか、哲學も宗教も今の自分に何の慰藉をも與へ得ないのは、到底それが第三者の言であるからであるまいか。
 自分はもう泣くより外はない。自分の不注意を悔いて、自分の力なきを嘆いて泣くより外はない。美しい死顏も明日までは頼まれない、我が子を見守つて泣くより外に術はない。
 妻も只泣いた許りで飽足らなくなつたか、部屋に歸つて亡き人の姉々等と過ぎし記憶をたどつて、悔しき當時の顛末を語り合つてる、自分も思はず出て來て其仲間になつた。
 自分が今井と共に家を出てから間もないことであつた。妻は氣分が惡く休み居つたが子供達の姿が暫く目を離れたので、臺所に働き居る姉達に、子供達はどうしてゐると問うた。姉は淀みなく三人が一所に面白さうに遊んでゐますとの答に、妻は安心して休み居つた。それから少し過ぎてお兒が一人上つてきて、母ちやん乳いと云ふのに、又奈々子はと姉等に問へば、そこらに遊んでゐるでせう、秋ちやんが遊びにつれていつたんでせうなどいふを咎めて、それではならない、慥かに見とゞけなくてはなりませんと、妻は今は起き出でゝ、そこかこゝかとたづねさした。隣へ見にやる、菓子屋へ見にやる、下水溝の橋の下まで見たが、まさかに池とは思はないので、最後に池を見たらば………。
 浮いて居つた池に、仰向になつて浮いてゐた。垣根の竹につかまつて、池へ這入らずに上げることが出來た。時間を考へると、初め居るかと問うた時慥かに居たものならば、其後の間は誠に僅かの間に相違ないが、まさか池にと思つて早く池を見なかつた。騷ぎだした時、直ぐに池を見たら間に合つたかも知れなかつた。さういふ生れ合せだと皆は云ふけれど、さう許りは思はれない。あぶないと云つて居ながら、なぜ早く池を埋めて終はなかつたか。考へると何もかも屆かない事許りで。それが殘念でならない。
 妻の繰言は果てしがない。自分もなぜ早く池を埋めなかつたか、取返しのつかぬ過ちであつた。其悔恨はひしひし胸に應へて、深い溜息をする外はない。
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『ねいあなた、わたしが一番後に見た時には誰れかの大人下駄を穿いてゐた。あの兒は容易に素足にならなかつたから、下駄を穿いて池へ這入つたかどうか、池のどのへ んから這入つたか、下駄などが池に浮いてでもゐるか、あなた一寸池を見て下さい。
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 妻のいふまゝに自分は提灯を照らして池を見た。池には竹垣を周らしてある。東の方の入口に木戸を作つてあるのが、いつか毀はれて明放しになつてる、茲から這入つたものに違ひない。せめて此木戸でもあつたらと切ない思が胸に込みあげる。連日の雨で薄濁りの水は地平線に平行して居る。只靜かに滑かで、人一人殺した恐しい水とも見えない。幼ない彼は命取らるゝ水とも知らず、地平と等しい水故深いとも知らずに、這入る瞬間までも笑ましき顏、愛くるしい眼に、疑ひも恐れもなかつたらう。自分はあり/\と亡き人の俤が目に浮ぶ。
 梅子も出てきた、民子も出てきた。二坪には足らない小池の周り、七度も八度も提灯を照らし廻つて、隈なく見廻したけれども、下駄も浮いてゐず、
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