後姿が目にとまつた。
 御飯が出來たからおんちやんを呼んでお出と彼等の母が云ふらしかつた。奈々ちやんお先にお出よ奈々ちやんと雪子が叫ぶ。幼き二人の傳令使は見る間に飛込んで來た。二人は同體に父の背に取りつく。
『おんちやん御はんおあがんなさいつて。
『おはんなさい、ハヽヽヽヽ
 父は兩手を廻し、大きな背に又二人を負んぶして立つた。出口が狹いので少し體を横に漸く通る窮屈さを一層興がつて、二人は笑ひ叫ぶ。父の背を降りない内から、二人でおんちやんを呼んできたと母に云ふ騷ぎ、母は猶立働いてる。父と三兒は向合に食卓についた。お兒は四つでも、箸持つことは、まだ本當でない、少し見ないと左手に箸を持つ、又お箸の手が違つたよと云へば、直ぐ右に直すけれど、少しすると又左に持つ、屡注意して右に持たせる位であるから、飯も盛にこぼす。奈々子は一年十ヶ月なれど、箸持つ手は始めから正しい。食べ物に着物を汚すことも少ないのである。姉等が坐るに狹いと云へば、身を片寄せて席をゆづる、彼れの母は彼れを熟視して、奈々ちゃんは顏構からしてしつかりして居ますねいといふ。
 末子であるから埒もなく可愛といふ譯ではないのだ。此の子はと思ふのは彼れの母許りではなく、父の目にもさう見えた。
 午後は奈々子が一晝寢してからであつた、雪子もお兒も鞦韆に飽き、寢覺めた奈々子を連れて、表の方に居る樣子であつたが、格子戸をからり明けて駈け上りざまに三兒は吾勝ちと父に何か告げんとするのである。
『お父さん金魚が死んだよ、水鉢の金魚が。
『おんちやん金魚がへんだ。金魚がへんだよおんちやん。
『へんだ、おつちやんへんだ。
 奈々子は父の手を取つて頻りに來て見よとの意を示すのである。父は只氣が弱い、口で求めず手で引立てる奈々子の要求に少しも逆ふことは出來ない。父は引かるゝまゝに三兒の後から表にある水鉢の金魚を見に往つた。五六匹死んだ金魚は外に取捨てられ、殘つた金魚はなまこの水鉢の中にくる/\輪をかいて廻つて居た、水は青黒く濁つてる。自分は早速新しい水をバケツに二はい汲み入れてやつた。奈々子は水鉢の縁に小さな手を掛け、
『きんごおつちやんきんご、おつちやんきんご。
『もう金魚へにやしないねいねいおんちやん、へにやしないねい。
 三兒は一時金魚の死んだのに驚いたらしかつた。父は更に金魚を買ひ足してやることを約束して座に返つた。三人は猶頻りに金魚をながめて年相當な會話をやつてるらしい。

 後から考へた此時の状態を何と云つたらよいか。無邪氣な可憐な、殆ど神に等しき幼きものゝ上に、悲慘なる運命は已に近く迫りつゝありしことを、どうして知り得られよう。
 くり/\と毛を刈つたつむり、つや/\と肥つた其手や足や、撫でゝさすつて、はては舐りまはしても飽きたらぬ悲しい奈々子の姿は、それきり父の目を離れて終つた。おんもと云ひ、あつこと云ひ、おつちやんと云つた其悲しい聲は永遠に父の耳を離れて終つた。
 此日の薄暮頃に奈々子の身には不測の禍があつた。さうして父は奈々子が此世を去る數時間以前奈々子に別れて終つた、然かも奈々子も父も家に居つて………。いつもならば、家に居れば僅かの間見えなくとも、必ず子供はどうしたと尋ねるのが常であるのに、其日の午後は、どいふものか數時間の間子供をたづねなかつた。跡から思ふと、闇の夜に顏も見得ず別れて終つたやうな氣がしてならない。

 一つの乳牛に消化不良なのがあつて、今井獸醫の來たのは、井戸端に夕日の影の薄い頃であつた。自分は今井と共に牛を見て、牧夫に投藥の方法など示した後、今井獸醫が、何か見せたい物があるからと云はるゝまゝに、今井の宅に打連れて往くことにした。自分が牛舍の流しを出て臺所へあがり、奧へ通つた内に梅子と女中は夕食の仕度に忙しく、雪子もお兒もうろ/\遊んでゐた、民子も秋子も鞦韆に遊んでゐた。只奈々の姿が見えなかつた。それでも自分は敢て怪みもせず、今井と共に門を出た、今井の宅は十二三分間で往かれる所である。
 今井の宅には洋燈もついて外に知人も一人居つた。上がつてから凡そ十五六分も過ぎたと思ふ時分に、あわたゞしき迎へのものは、長女と女中であつた。
『お父さん大へんです、奈々ちゃんが池へ落ちて………。
 それやつと口から出たか出ないかも覺えがなく、人を押しのけて飛出した。飛び出でる間際にも、
『奈々子は泣いたかツ
と問うたら、長女の聲で未だ泣かないと聞えた。自分は其不安な一語を耳に挾さんで、走りに走つた。走れば十分とはかゝらぬ間なれど肥つた自分には息切れがして殆どのめりさうである。漸く家近く來ると梅子が走つてきた。自分は又
『奈々子は泣いたか。
『まだ泣かない、お父さん未だ醫者も來ない。
 自分は周章てながらも六つかしいなと腹に思ひつゝ猶一息と走つた。
 わや/\と騷がしい家の中は薄
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