を覺した。起つて窓外を見れば、濁水を一ぱいに湛へた、我家の周圍の一廓に、ほの/″\と夜は明けて居つた。忘れられて取殘された※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66、212−14]は、主なき水漬屋に、常に變らぬ長閑な聲を長く引いて時を告ぐるのであつた。
三
一時の急を免れた避難は、人も家畜も一夜の宿りが漸くの事であつた。自分は知人某氏を兩國に訪うて第二の避難を謀つた。侠氣と同情に富める某氏は全力を盡して奔走して呉れた。家族は悉く自分の二階へ引取つてくれ、牛は回向院の庭に置くことを諾された。天候情なく此の日又雨となつた。舟で高架鐵道の土堤へ漕ぎつけ、高架線の橋上を兩國に出ようといふのである。我に等しき避難者は、男女老幼、雨具も無きが多く、陸續として、約二十町の間を引きゝりなしに渡り行くのである。十八を頭に赤子の守兒を合して九人の子供を引連れた一族も其内の一|群《むれ》であつた。大人は勿論大きい子供等はそれ/\持物がある。五ツになるのと七ツになる幼きものどもが、我儘も云はず、泣きもせず、覺束ない素足を運びつゝ泣くやうな雨の中を兎も角も長い/\高架の橋を渡つたあはれさ、兩親の目には忘れる事の出來ない印象を殘した。
もう家族に心配はいらない、これから牛と云ふ事で其の手配にかゝつた。人數が少くて數回に牽くことは容易でない。二十頭の乳牛を二回に牽くとすれば、十人の人を要するのである。雨の降るのに然かも大水の中を牽くのであるから、無造作には人を得られない。某氏の盡力に依り漸く午後の三時頃に至つて人を頼み得た。
成るべく水の淺い道筋を選ばねばならぬ。それで自分は、天神川の附近から、高架線の上を本所停車場に出て、横川に添ふて竪川の河岸通を西へ兩國に至るべく順序を定めて出發した。雨も止んで來た。此間の日の暮れない内に牽いて終はねばならない。人々は勢込んで乳牛の所在地へ集つた。
用意は出來た。此上は鐵道員の許諾を得、少しの間線路を通行さして貰はねばならぬ。自分は驛員の集合してる所に至つて、かねて避難して居る乳牛を引上げるに就いて茲より本所停車場までの線路の通行を許してくれと乞ふた。驛員等は何か話合ふて居たらしく、自分の切願に一顧をくれるものも無く、挨拶もせぬ。
如何でせうか、物の十分間もかゝるまいと思ひますから是非お許しを願いたいですが、それに此直ぐ下は水が深くて
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