前はむずかしやだからな、こうして念を押すのだ。異存はないだろう」
まだおとよは黙ってる。父もようやく娘の顔色に気づいて、むっとした調子に声を強め、
「異存がなけらきめてしまうど。今日じゅうに挨拶と思うたが、それも何かと思うて明日《あす》じゅうに返辞をするはずにした。お前も異存のあるはずがないじゃねいか、向うは判りきってる人だもの」
おとよはようやく体を動かした。ふるえる両手を膝《ひざ》の前に突いて、
「おとッつさん、わたしの身の一大事の事ですから、どうぞ挨拶を三日間待ってください……」
おとよはややふるえ声でこう答えた。さすがに初めからきっぱりとは言いかねたのである。おとよの父は若い時から一酷《いっこく》もので、自分が言いだしたらあとへは引かぬということを自慢にしてきた人だ。年をとってもなかなかその性《しょう》はやまない。おれは言いだしたら引くのはいやだから、なるべく人の事に口出しせまいと思ってると言いつつ、あまり世間へ顔出しもせず、家の事でも、そういうつもりか若夫婦のやる事に容易に口出しもせぬ。そういう人であるから、自分の言ったことが、聞かれないと執念深く立腹する。今おとよの挨拶《あいさつ》ぶりが、不承知らしいので内心もう非常に激昂《げっこう》した。ことに省作の事があるから一層|怒《おこ》ったらしく顔色を変えて、おとよをねめつけていたが、しばらくしてから、
「ウム、それではきさま三日たてば承知するのか」
おとよは黙っている。
「とよ黙っててはわかんね。三日たてば承知するかと言うんだ。なアおとよ、わが娘ながらお前はよく物の解《わか》る女だ。こうして、おれたちが心配するのも、皆お前のためを思うての事だど」
「おとッつさんの思《おぼ》し召しはありがたく思いますが、一度わたしは懲りていますから、今度こそわが身の一大事と思います。どうぞ三日の間考えさしてください。承知するともしないともこの三日の間にわたしの料簡《りょうけん》を定《き》めますから」
父は今にも怒号せんばかりの顔色であるけれど、問題が問題だけにさすがに怒りを忍んでいる。
「こちから明日じゅうに確答すると言った口上に対しまた二日間挨拶を待ってくれということが言えるか。明日じゅうに判《わか》らぬことが、二日延べたとて判る道理があんめい。そんな人をばかにしたような言《こと》を人様にいえるか、いやとも応とも明日じゅうには確答してしまわねばならん。
おとよ、なんとかもう少し考えようはないか。両親兄弟が同意でなんでお前に不為《ふため》を勧めるか。先度は親の不注意もあったと思えばこそ、ぜひ斎藤へはやりたいのだ。どこから見たって不足を言う点がないではないか、生若《なまわか》いものであると料簡の見留《みと》めもつきにくいが斎藤ならばもう安心なものだ。どうしても承知ができないか」
父は沸《に》える腹をこらえ手を握って諭《さと》すのである。おとよは瞬《まばた》きもせず膝《ひざ》の手を見つめたまま黙っている。父はもう堪《たま》りかねた。
「いよいよ不承知なのだな。きさまの料簡は知れてるわ、すぐにきっぱりと言えないから、三日の間などとぬかすんだ。目の前で両親をたばかってやがる。それでなんだな、きさまは今でもあの省作の野郎と関係していやがるんだな。ウヌ生《いけ》ふざけて……親不孝ものめが、この上にも親の面に泥を塗るつもりか、ウヌよくも……」
おとよは泣き伏す。父はこらえかねた憤怒の眼を光らしいきなり立ち上がった。母もあわてて立ってそれにすがりつく。
「お千代やお千代や……早くきてくれ」
お千代も次の間から飛んできて父を抑《おさ》える。お千代はようやく父をなだめ、母はおとよを引き立てて別間へ連れこむ。この場の騒ぎはひとまず済んだが、話はこのまま済むべきではない。
七
おとよの父は平生《へいぜい》ことにおとよを愛し、おとよが一番よく自分の性質を受け継いだ子で、女ながら自分の話相手になるものはおとよのほかにないと信じ、兄の佐介《さすけ》よりはかえっておとよを頼もしく思っていたのである。おとよも父とはよく話が合い、これまでほとんど父の意に逆らった事はなかった。おとよに省作との噂《うわさ》が立った時など母は大いに心配したに係らず、父はおとよを信じ、とよに限って決して親に心配を掛けるような事はないと、人の噂にも頓着《とんじゃく》しなかった。はたして省作は深田の養子になり、おとよも何の事なく帰ってきたから、やっぱり人の悪口が多いのだと思うていたところ、この上もない良縁と思う今度の縁談につき、意外にもおとよが強固に剛情な態度を示し、それも省作との関係によると見てとった父は、自分の希望と自分の仕合せとが、根柢《こんてい》より破壊せられたごとく、落胆と憤懣《ふんまん》と慚愧《ざんき》と一時に胸に湧《わ》き返った。
さりとて怒ってばかりもおられず、憎んでばかりもおられず、いまいましく片意地に疳張《かんば》った中にも娘を愛する念も交《まじ》って、賢いようでも年が若いから一筋に思いこんで迷ってるものと思えば不愍《ふびん》でもあるから、それを思い返させるのが親の役目との考えもないではない。
夕飯過ぎた奥座敷には、両親と佐介と三人|火鉢《ひばち》を擁していても話にはずみがない。
「困ったあまっ子ができてしまった」
天井を見て嘆息するのは父だ。
「おとよはおとッつさんの気に入りっ子だから、おとッつさんの言うことなら聞きそうなものだがな」
「お前こんな話の中でそんなこと言うもんじゃねいよ」
「とよは一体おれの言うことに逆らったことはないのに、それにこの上ないえい嫁の口だと思うのに、あんなふうだから、そりゃ省作の関係からきてるに違いない。お前女親でいながら、少しも気がつかんということがあるもんか」
「だってお前さん、省作が深田を出たといってからまだ一月ぐらいにしかならないでしょう。それですからまさかその間にそんな事があろうとは思いませんから」
「おッ母《か》さん、人の噂《うわさ》では省作が深田を出たのはおとよのためだと言いますよ」
「ほんとにそうかしら」
「実にいまいましいやつだ。婿にももらえず嫁にもやれずという男なんどに情を立ててどうするつもりでいやがるんだろ、そんなばかではなかったに。惜しい縁談だがな、断わっちまう、明日|早速《さっそく》断わる。それにしてもあんなやつ、外聞悪くて家にゃ置けない、早速どっかへやっちまえ、いまいましい」
「だってお前さん、まだはっきりいやだと言ったんじゃなし、明日じゅうに挨拶《あいさつ》すればえいですから、なおよくあれが胸も聞いてみましょう。それに省作との関係もです、嫁にやるやらぬは別としても糺《ただ》さずにおかれません」
「なあにだめだだめだ、あの様子では……人間もばかになればなるものだ、つくづく呆《あき》れっちまった。どういうもんかな、世間の手前もよし、あれの仕合せにもなるし、向うでは懇望なのだから、残念だなあ」
父はよくよく嘆息する。
「だから今一応も二応も言い聞かせてみてくださいな」
「おとよの仕合せだと言っても、おとよがそれを仕合せだと思わないで、たって厭《いや》だと言うなら、そりゃしようがないでしょう」
「だれの目にも仕合せだと思うに、それをいわれもなく、両親の意に背くような、そんな我儘《わがまま》はさせられないよ」
「させられないたって、おッ母さんしようがないよ」
「佐介、ばかいいをするな、おまえなどまでもそんな事いうようだから、こんな事にもなるのだ」
「わが身の一大事だから少し考えさせてくださいと言うのを、なんでもかでもすぐ承知しろと言うのはちっとひどいでしょう」
「それでは佐介、きさまもとよを斎藤へやるのは不同意か」
「不同意ではありませんけれど、そんなに厭だと言うならと思うんです。おとよの肩を持って言うんじゃありません。おとッつさんのは言い出すとすぐ片意地になるから困る」
「なに……なにが片意地なもんか。とよのやつの厭だと言うにゃいわくがあるからだ、厭だとは言わせられないんだ」
「佐介、もうおよしよ、これでは相談にはなりゃしない。ねいおまえさん、お千代がよくあれの胸を聞くはずですから、この話は明日にしてください。湯がさめてしまった、佐介、茶にしろよ」
父はますますむずかしい顔をしている。なるほど平生《へいぜい》おれに片意地なところはある、あるけれども今度の事は自分に無理はない、されば家じゅう悦《よろこ》んで、滞りなく纏《まと》まる事と思いのほか、本人の不承知、佐介も乗り気にならぬという次第で父は劫《ごう》が煮えて仕方がない、知らず知らず片意地になりかけている。呆《あき》れっちまった、どうしてあんなにばかになったか、もう駄目《だめ》だ、断わってしまう、こう口には言っても、自分の思い立った事を、どんな場合にもすぐ諦《あきら》めてよすような人ではない。いろいろ理屈をひねくって根気よく初志を捨てないのがこの人の癖である、おとよはこれからつらくなる。
お千代はそれほど力になる話相手ではないが悪気《わるぎ》のない親切な女であるから、嫁《よめ》小姑《こじゅうと》の仲でも二人は仲よくしている。それでお千代は親切に真におとよに同情して、こうなって隠したではよくないから、包まず胸を明かせとおとよに言う。おとよもそうは思っていたのであるから、省作との関係も一切明かしたうえ、
「わたしは不仕合せに心に染まない夫を持って、言うに言われないよくよく厭《いや》な思いをしましたもの、懲りたのなんのって言うも愚かなことで……なんのために夫を持ちます、わたしは省作という人がないにしても、心の判《わか》らない人などの所へ二度とゆく気はありません。この上わたしが料簡《りょうけん》を換えて外へ縁づくなら、わたしのした事はみんな淫奔《いたずら》になります。わたしのためわたしのためと心配してくださる両親の意に背いては、誠《まこと》に済まない事と思いますけれど、こればかりは神様の計らいに任せて戴きたい、姉《ねえ》さんどうぞ堪忍《かんにん》してください、わたしの我儘《わがまま》には相違ないでしょうが、わたしはとうから覚悟をきめています。今さらどのような事があろうと脇目《わきめ》を振る気はないんですから」
お千代はわけもなくおとよのために泣いて、真からおとよに同情してしまった。その夜のうちにお千代は母に話し母は夫に話す。燃えるようなおとよのことばも、お千代の口から母に話す時は、大半熱はさめてる、さらに母の口から父に話す時は、全く冷静な説明になってる。
「なんだって……ここで嫁に出れば淫奔《いたずら》になるって……。ばかばかしい、てめいのしてる事が大の淫奔《いたずら》じゃねいか、親不孝者めが、そのままにしちゃおけねい」
とにかく明日の事という事でこの夜はおしまいになった。
八
朝飯になるというにおとよはまだ部屋《へや》を出ない。お千代が一人で働いて、家じゅうに御《ご》ぜんをたべさせた。学校へゆく二人《ふたり》の兄妹《きょうだい》に着物を着せる、座敷を一通り掃除《そうじ》する、そのうちに佐介は鍬《くわ》を肩にして田へ出てしまう。お千代はそっとおとよの部屋へはいって、
「おとよさん今日《きょう》はゆっくり休んでおいでなさい、蚕籠《こかご》は私がこれから洗いますから」
そういわれても、おとよはさすがに寝てもいられず部屋を出た。一晩のうちにも痩《や》せが目につくようである。父は奥座敷でぽんぽん煙草《たばこ》を吸って母と話をしている。おとよは気が引けるわけもないけれども、今日はまた何といわれるのかと思うと胸がどきまぎして朝飯につく気にもならない、手水《ちょうず》をつかい着物を着替えて、そのままお千代が蚕籠を洗ってる所へ行こうとすると、
「おとよ」
と呼ぶのは母であった。おとよは昨日とやや同じ位置に座につく。
「おはようございます」
とかすかに言って、両親のことばをまつ。わが親ながら顔見るのも怖《おそ》ろしく、俯向《うつむ》いているのである。罪人が取り調べを
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