る事であるが、そういうことも全くないものとはいわれんようである。
 おとよは省作と自分と二人《ふたり》の境遇を、つくづくと考えた上に所詮《しょせん》余儀ないものと諦《あきら》め、省作を手離して深田へ養子にやり、いよいよ別れという時には、省作の手に涙をふりそそいで、
「こうして諦めて別れた以上は、わたしのことは思い棄《す》て、どうぞおつねさんと夫婦仲よく末長く添い遂げてください。わたしは清六の家を去ってから、どういう分別になるか、それはその時に申し上げましょう。ああそうでない、それを申し上げる必要はないでしょう、別れてしまった以上は」
 ことばには立派に言って別れたものの、それは神ならぬ人間の本音《ほんね》ではない。余儀ない事情に迫られ、無理に言わせられた表面の口《くち》の端《は》に過ぎないのだ。
 おとよは独身《ひとりみ》になって、省作は妻ができた。諦めるとことばには言うても、ことばのとおりに心はならない。ならないのがあたりまえである。浮気の恋ならば知らぬこと、真底《しんそこ》から思いあった間柄が理屈で諦められるはずがない。たやすく諦めるくらいならば恋ではない。
 おとよは意志の強い人
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