今まではお互いに自分で自分をもてあつかっていたんだもの、それを今は自分の事は考えないで、何が面白いの、かにが面白いのって、世間の物を面白がってるんだもの。あ、宿であかしが点《つ》いた、おとよさん急ごう」
 恋は到底|痴《おろか》なもの、少しささえられると、すぐ死にたき思いになる、少し満足すればすぐ総てを忘れる。思慮のある見識のある人でも一度恋に陥れば、痴態を免れ得ない。この夜二人はただ嬉《うれ》しくて面白くて、将来の話などしないで寝てしまった。翌朝お千代が来た時までに、とにかく省作がまず一人で東京へ出ることとこの月半《つきなか》に出立《しゅったつ》するという事だけきめた。おとよは省作を一人でやるか、自分も一緒に行くかということについて、早くから考えていたが、つまり二人で一緒に出ることは穏やかでないと思いさだめたのである。

      十二

 はずれの旦那《だんな》という人は、おとよの母の従弟《いとこ》であって薊《あざみ》という人だ。世話好きで話のうまいところから、よく人の仲裁などをやる。背の低い顔の丸い中太《ちゅうぷと》りの快活で物の解《わか》った人といわれてる。それで斎藤の一条以来、土屋の家では、例の親父《おやじ》が怒《おこ》って怒って始末におえぬということを聞いて、どうにか話をしてやりたく思ってるものの、おとよの一身に関することは、世間晴れての話でないから、親類とてめったな話もできずにおったところ、省作の家の人たちの心持ちがすっかり知れてみると、いつまでそうしては置けまいと、お千代がやきもきして佐介を薊の方へ頼みにやった。薊は早速《さっそく》その晩やって来た。もとより親類ではあるし、親しい間柄だからまず酒という事になる。主人の親父とは頃合いの飲み相手だ、薊は二つめにさされた杯を抑《おさ》え、
「時に今日《きょう》上がったのは、少し願いがあって来たわけじゃから、あんまり酔わねいうちに話してしまうべい。おッ母《か》さん、おッ母さん、あなたにもここさ来て聞いててもらべい、お千代さん、ちょっとおッ母さんを呼んでください」
 おとよの母はいろいろ御心配くだすってと辞儀《じぎ》をしてそこにすわる。
「御両人の子についての話だから、御両人の揃《そろ》った所でなけりゃ話はできない」
 薊の話には工夫がある。男親一人にがんばらせないという底意を諷《ふう》してかかる。
「時に土屋さん、今朝《けさ》佐介さんからあらまし聞いたんだが、一体おとよさんをどうする気かね」
「どうもしやしない、親不孝な子を持って世間へ顔出しもできなくなったから、少し小言《こごと》が長引いたまでだ。いや薊さん、どうもあなたに面目次第もない」
「土屋さんあなたは、よく理屈を言う人だから、薊も今夜は少し理屈を言おう。私は全体理屈は嫌いだが、相手が、理屈屋だから仕方がねい。おッ母さんどうぞお酌《しゃく》を……私は今夜は話がつかねば喧嘩《けんか》しても帰らねいつもりだからまあゆっくり話すべい」
 片意地な土屋老人との話はせいてはだめだと薊は考えてるのだ。
「土屋さん、あなたが私に対して面目次第もないというのが、どうも私には解んねい。斎藤との縁談を断わったのが、なぜ面目ないのか、私は斎藤から頼まれて媒妁人《なこうど》となったのだから、この縁談は実はまとめたかった。それでも当の本人が厭《いや》だというなら、もうそれまでの話だ。断わるに不思議はない、そこに不面目もへちまもない」
「いや薊《あざみ》、ただ斎藤へ断わっただけなら、決して面目ないとは思わない。ないしょ事の淫奔《いたずら》がとおって、立派な親の考えがとおせんから面目がない。あなたも知ってのとおり、あいつは親不孝な子ではなかったのだがの」
「少し待ってください。あなたは無造作に浮奔《いたずら》だの親不孝だと言うが、そこがおれにゃ、やっぱり解《わか》んねい。おとよさんがなで親不孝だ、おとよさんは今でも親孝行な人だ、私がそういうばかりではない、世間でもそういってる。私の思うにゃあなたがかえって子に不孝だ」
「どこまでも我儘《わがまま》をとおして親のいうことに逆らうやつが親不孝でないだろか」
「親のいうことすなわち自分のいうことを、間違いないものと目安をきめてかかるのがそもそも大間違いのもとだ。親のいうことにゃ、どこまでも逆らってならぬとは、孔子《こうし》さまでもいっていないようだ。いくら親だからとて、その子の体まで親の料簡《りょうけん》次第にしようというは無理じゃねいか、まして男女間の事は親の威光でも強《し》いられないものと、神代の昔から、百里隔てて立ち話のできる今日《こんにち》でも変らぬ自然の掟《おきて》だ」
「なによ、それが淫奔事《いたずらごと》でなけりゃ、それでもえいさ。淫奔をしておって我儘をとおすのだから不埒《ふらち》な
前へ 次へ
全22ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
伊藤 左千夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング