あ私にゃわかんねい」
「それじゃ蛇王様は皹の事ばかり拝む神様かしら」
「そりゃ神様だもの、拝めば何でも御利益《ごりやく》があるさ」
「なんでも手足がなおれば、足袋《たび》なり手袋なりこしらえて上げるんだそうよ、ねい省さん」
「さっきの爺《じい》さんはたいへん御利益があるっていったねい」
三人は罪のない話をしながらいつか蛇王権現《だおうごんげん》の前へくる。それでも三人はすこぶる真面目《まじめ》に祈願をこめて再び池の囲《めぐ》りを駆け廻りつつ愉快に愉快にとうとう日も横日《よこび》になった。
十一
東金町《とうがねまち》の中ほどから北後ろの岡《おか》へ、少しく経上《へあ》がった所に一区をなせる勝地がある。三方岡を囲《めぐ》らし、厚|硝子《ガラス》の大鏡をほうり出したような三角形の小湖水を中にして、寺あり学校あり、農家も多く旅舎《やどや》もある。夕照りうららかな四囲の若葉をその水面に写し、湖心寂然として人世以外に別天地の意味を湛《たた》えている。
この小湖には俗な名がついている、俗な名を言えば清地を汚すの感がある。湖水を挟んで相対している二つの古刹《こさつ》は、東岡なるを済福寺とかいう。神々《こうごう》しい松杉の古樹、森高く立ちこめて、堂塔を掩《おお》うて尊い。
桑を摘んでか茶を摘んでか、笊《ざる》を抱《かか》えた男女三、四人、一隅《いちぐう》の森から現われて済福寺の前へ降りてくる。
お千代は北の幸谷《こうや》なる里方へ帰り、省作とおとよは湖畔の一|旅亭《りょてい》に投宿したのである。
首を振ることもできないように、身にさし迫った苦しき問題に悩みつつあった二人が、その悩みを忘れてここに一夕の緩和を得た。嵐《あらし》を免れて港に入りし船のごとく、激《たぎ》つ早瀬の水が、僅《わず》かなる岩間の淀《よど》みに、余裕を示すがごとく、二人はここに一夕の余裕を得た。
余裕をもって満たされたる人は、想《おも》うにかえって余裕の趣味を解せぬのであろう。余裕なき境遇にある人が、僅かに余裕を発見した時に、初めて余裕の趣味を適切に感ずることができる。
一風呂《ひとふろ》の浴《ゆあ》みに二人は今日の疲れをいやし、二階の表に立って、別天地の幽邃《ゆうすい》に対した、温良な青年清秀な佳人、今は決してあわれなかわいそうな二人ではない。
人は身に余裕を覚ゆる時、考えは必ずわれを離れる。
「おとよさんちょっとえい景色ねい、おりて見ましょうか、向うの方からこっちを見たら、またきっと面白いよ」
「そうですねい、わたしもそう思うわ、早くおりて見ましょう、日のくれないうちに」
おとよは金めっきの足に紅玉の玉をつけた釵《かんざし》をさし替え、帯締め直して手早く身繕いをする。ここへ二十七、八の太った女中が、茶具を持って上がってきた。茶代の礼をいうて叮嚀《ていねい》にお辞儀《じぎ》をする。
「出花《でばな》を入れ替えてまいりました、さあどうぞ……」
「あ、今おりて湖水のまわりを廻《まわ》ってくる」
「お二人でいらっしゃいますの……そりゃまあ」
女中は茶を注《つ》ぎながら、横目を働かして、おとよの容姿をみる。おとよは女中には目もくれず、甲斐絹裏《かいきうら》の、しゃらしゃらする羽織《はおり》をとって省作に着せる。省作が下手《へた》に羽織の紐《ひも》を結べば、おとよは物も言わないで、その紐を結び直してやる。おとよは身のこなし、しとやかで品位がある。女中は感に堪《た》えてか、お愛想か、
「お羨《うらや》ましいことねい」
「アハヽヽヽヽ今日はそれでも、羨ましいなどといわれる身になったかな」
おとよは改めて自分から茶を省作に進め、自分も一つを啜《すす》って二人はすぐに湖畔へおりた。
「どっちからいこうか」
「どっちからでもおんなしでしょうが、日に向いては省さんいけないでしょう」
「そうそう、それじゃ西手からにしよう」
箱のようなきわめて小さな舟を岸から四、五間乗り出して、釣《つ》りを垂《た》れていた三人の人がいつのまにかいなくなっていた。湖水は瀲《さざなみ》も動かない。
二人がどうして一緒になろうかという問題を、しばらくあとに廻《まわ》し、今二人は恋を命とせる途中で、恋を忘れた余裕に遊ぶ人となった。これを真の余裕というのかもしれぬ。二人はひょっと人間を脱《ぬ》け出《い》でて自然の中にはいった形である。
夕靄《ゆうもや》の奥で人の騒ぐ声が聞こえ、物打つ音が聞こえる。里も若葉も総《すべ》てがぼんやり色をぼかし、冷ややかな湖面は寂寞《せきばく》として夜を待つさまである。
「おとよさん面白かったねい、こんなふうな心持ちで遊んだのは、ほんとに久しぶりだ」
「ほんとに省さんわたしもそうだわ、今夜はなんだか、世間が広くなったような気がするのねい」
「そうさ、
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