のだ」
「まだあんな事を言ってる、理屈をいう人に似合わず解らない老人《としより》だ。それだからあなたは子に不孝な人だというのだ。生きとし生けるもの子をかばわぬものはない、あなたにはわが子をかばうという料簡がないだなあ」
「そんな事はない」
「ないったって、現にやってるじゃねいか。わが子をよく見ようとはしないで、悪く悪くと見てる、いわば自分の片意地な料簡から、おとよさんを強いて淫奔《いたずら》ものにしてしまおうとしてる、何という意地の悪い人だろう」
この一言には老人も少しまいった。たしかに腹ではまいっても、なるほどそうかとは、口が腐ってもいえない人だ。よほど困ったと見え、独りで酒を注《つ》いで飲む手が少し顫《ふる》えてる。まあ一つといって盃《さかずき》を薊にさす。
「そりゃ土屋さん、男女の関係ちは見ようによれば、みんな淫奔《いたずら》だよ、淫奔であるもないもただ精神の一つにあるだよ。表面の事なんかどうでもえいや、つまらん事から無造作に料簡を動かして、出たり引っこんだりするのか淫奔の親方だよ。それから見るとおとよさんなんかは、こうと思い定めた人のために、どこまでも情を立てて、親に棄《す》てられてもとまで覚悟してるんだから、実際|妻《さい》にも話して感心していますよ」
「飛んでもない間違いだ」
老人は鼻汗いっぱいにかいた顔に苦しい笑いをもらした。おとよの母もここでちょっと口をあく。
「薊《あざみ》さん、ほんとに家のおとよは今ではかわいそうですよ。どうかおとッつさんの機嫌を直したいとばかりいってます」
「ねいおッ母《か》さん、小手の家では必ず省作に身上《しんしょう》を持たせるといってるそうだから、ここは早く綺麗《きれい》に向うへくれるのさ。おッ母さんには御異存はないですな」
「はア、うちで承知さえすれば……」
「土屋さん、もう理屈は考えないで、私に任せてください。若夫婦はもちろんおッ母さんも御異存はない、すると老人一人で故障をいうことになる、そりゃよくない、さあ綺麗に任してください」
老人はまた一人で酒を注《つ》いで飲む、そうして薊に盃《さかずき》をさす。
「どうです土屋さん……省作に気に入らん所でもありますか。なかには悪口いうものもあるが、公平な目で見ればこの町村千何百戸のうちで省作ぐらい出来のえい若いものはねい。そりゃ才のあるのも学のあるのもあろうけれど、出来のえい気に入った若いものといえば、あの男なんぞは申し分がない。深田でもたいへん惜しがって、省作が出たあとで大分《だいぶ》揉《も》めたそうだ、親父《おやじ》はなんでもかでも面倒を見ておけというのであったそうな。それもこれもつまりおとよさんのために、省作も深田にいなかったのだから、おとよさんが親に棄《す》てられてもと覚悟したのは決して浮気な沙汰《さた》ではない。現に斎藤でさえ、わたしがこの間、逢《あ》ったら、
いや腹立つどころではない、僕も一人には死なれ一人には去られ、こうと思いこんで来てくれる女がほしいと思っていたところでしたから、かえっておとよさんの精神には真から敬服しています。
どうです、それを面目ないの淫奔《いたずら》だのって、現在の親がわが子の悪口をいうたあ、随分無慈悲な親もあればあったもんだ。いや土屋、悪くはとるな」
薊はことばを尽くし終わって老人の顔を見ている。煙草《たばこ》を一服吸う。老人は一言も答えぬ。
「どうです、まだ任せられませんか、もう理屈は尽きてるから、理屈は抜きにして、それでも親の掟《おきて》に協《かな》わない子だから捨てるというなら、この薊に拾わしてください。さあ土屋さん、何とかいうてください」
「いや薊さん、それほどいうなら任せよう。たしかに任せるから、親の顔に対して少し筋道を立ててもらいたい」
「困ったなあ、どんな筋道か知らねいが、真の親子の間で、そんなむずかしい事をいわないで、どうぞ土屋さん、何にもなしに綺麗《きれい》に任せてください。おとよさんにあやまらせろというなら、どのようにもあやまらしょう」
「どうか旦那《だんな》、もう堪忍《かんにん》してやってください」
「てめいが何を知る、黙ってろ」
薊《あざみ》も長い間の押し問答の、石に釘《くぎ》打つような不快にさっきからよほど劫《ごう》が沸いてきてる。もどかしくて堪らず、酔った酒も醒《さ》めてしまってる。
「どうでも土屋さん、もうえい加減にうんといってください。一体筋道とはどういう事です」
「筋道は筋道さ、親の顔が立ちさえすればえい。親の理屈を丸つぶしにして、子の我儘《わがまま》をとおすことは……」
薊の顔は見る見る変ってきた。灰吹きを叩《たた》く音も際立《きわだ》って高い。しばらく身をそらして老人を見おろしていたが、
「ウム自分の顔の事ばかりいってる。おれの顔はどうする、この薊
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