、この郡の恥辱だ、随分思い切ったもんだ、県庁あたりでもどうにかしそうなもんだ、つまり千葉県人の恥辱だ、ひどいなあ」
省作はこんなことをひとりで言って、待ち合せる恋人がそこまで来たのも知らずにおった。お千代が、ポンポンと手を叩《たた》く、省作は振り返って出てくる。
「省さん、暢気《のんき》なふうをして何をそんなに見てるのさ」
「何さ立派なお堂があんまり荒れてるから」
「まあ暢気な人ねい、二人がさっきからここへきてるのに、ぼんやりして寺なんか見ていて、二人の事なんか忘れっちゃっていたんだよ」
お千代は自分の暢気は分らなくとも省作の暢気は分るらしい。省作は緩《ゆるや》かに笑いながら二人の所へきた。
思うこと多い時はかえって物はいえぬらしく、省作はおとよに物もいわない、おとよも顔にうるわしく笑ったきり省作に対して口はきかぬ。ただおとよが手に持つ傘《かさ》を右に左にわけもなく持ち替えてるが目にとまった。なつかしいという形のない心は、お互いのことばによって疎通《そつう》せらるる場合が多いが、それは尋常の場合に属することであろう。
今省作とおとよとは逢《あ》っても口をきかない。お千代が前にいるからというわけでもなく、お互いにすねてるわけでもない。物を言わなくとも満足ができたのである。なつかしいという形のない心が、ことばの便《たよ》りをからないで満足に抱合ができたからである。
お千代と省作との間に待ったとか待たないとかいう罪のない押し問答がしばらく繰り返される。身を傾けるほどの思いはかえって口にも出さず、そんな埒《らち》もなき事をいうて時間を送る、恋はどこまでももどかしく心に任せぬものである。三人はここで握り飯の弁当を開いた。
十
「のろい足だなあ」と二、三度省作から小言《こごと》が出て、午後の二時ごろ三人はようやく御蛇《おんじゃ》が池《いけ》へついた。飽き飽きするほど日のながいこの頃、物考えなどしてどうかすると午前か午後かを忘れる事がある。まだ熱さに苦しむというほどに至らぬ若葉の頃は、物参りには最も愉快な時である。三人一緒になってから、おとよも省作も心の片方に落ちつきを得て、見るものが皆面白くなってきた。おのずから浮き浮きしてきた。目下の満足が楽しく、遠い先の考えなどは無意識に腹の隅《すみ》へ片寄せて置かれる事になった。
これが省作おとよの二人《ふたり》ばかりであったらば、こうはゆかなかったかもしれない。そこにお千代という、はさまりものがあって、一方には邪魔なようなところもあるが、一面にはそれがためにうまく調子がとれて、極端に陥らなかったため、思ったよりも今日の遊びが愉快になった。初めはお千代の暢気《のんき》が目についたに、今は三人やや同じ程度に暢気になった。しかしながら省作おとよの二人には別に説明のできない愉快のあるはもちろんである。物の隅々に溜《たま》っていた塵屑《ちりくず》を綺麗《きれい》に掃き出して掃除《そうじ》したように、手も足も頭もつかえて常に屈《かが》まってたものが、一切の障《さわ》りがとれてのびのびとしたような感じに、今日ほど気の晴れた事はなかった。
御蛇《おんじゃ》が池《いけ》にはまだ鴨《かも》がいる。高部《たかべ》や小鴨や大鴨も見える。冬から春までは幾千か判《わか》らぬほどいるそうだが、今日も何百というほど遊んでいる。池は五、六万坪あるだろう、ちょっと見渡したところかなり大きい湖水である。水も清く周囲の岡《おか》も若草の緑につつまれて美しい、渚《なぎさ》には真菰《まこも》や葦《あし》が若々しき長き輪郭を池に作っている。平坦《へいたん》な北上総《きたかずさ》にはとにかく遊ぶに足るの勝地である。鴨は真中《まんなか》ほどから南の方、人のゆかれぬ岡の陰に集まって何か聞きわけのつかぬ声で鳴きつつある。御蛇が池といえば名は怖ろしいが、むしろ女小児《おんなこども》の遊ぶにもよろしき小湖に過ぎぬ。
湖畔の平地に三、四の草屋がある。中に水に臨んだ一|小廬《しょうろ》を[#「一|小廬《しょうろ》を」は底本では「一|小慮《しょうろ》を」]湖月亭《こげつてい》という。求むる人には席を貸すのだ。三人は東金《とうがね》より買い来たれる菓子|果物《くだもの》など取り広げて湖面をながめつつ裏なく語らうのである。
七十ばかりな主《あるじ》の翁《おきな》は若き男女のために、自分がこの地を銃猟禁制地に許可を得し事柄や、池の歴史、さては鴨猟の事など話し聞かせた。その中には面白き話もあった。
「水鳥のたぐいにも操《みさお》というものがあると見えまして、雌なり雄なりが一つとられますと、あとに残ったやもめ鳥でしょう、ほかの雌雄が組をなして楽しげに遊んでる中に、一つ淋《さび》しく片寄って哀れに鳴いてるのを見ることがあります。そういうこ
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