、そうしようともいわない。飯が済めばさっさと田圃《たんぼ》へ出てしまう。

      九

 世は青葉になった。豌豆《えんどう》も蚕豆《そらまめ》も元なりは莢《さや》がふとりつつ花が高くなった。麦畑はようやく黄ばみかけてきた。鰌《どじょう》とりのかんてらが、裏の田圃に毎夜八つ九つ出歩くこの頃、蚕は二眠が起きる、農事は日を追うて忙しくなる。
 お千代が心ある計らいによって、おとよは一日つぶさに省作に逢《お》うて、将来の方向につき相談を遂《と》ぐる事になった。それはもちろんお千代の夫も承知の上の事である。
 爾来《じらい》ことにおとよに同情を寄せたお千代は、実は相談などいうことは第二で、あまり農事の忙しくならないうちに、玉の緒かけての恋中《こいなか》に、長閑《のどか》な一夜の睦言《むつごと》を遂げさせたい親切にほかならぬ。
 お千代が一緒というので無造作に両親の許しが出る。
 かねて信心《しんじん》する養安寺村の蛇王権現《だおうごんげん》にお詣《まい》りをして、帰りに北の幸谷《こうや》なるお千代の里へ廻《まわ》り、晩《おそ》くなれば里に一宿《いっしゅく》してくるというに、お千代の計らいがあるのである。
 その日は朝も早めに起き、二人して朝の事一通りを片づけ、互いに髪を結い合う。おとよといっしょというのでお千代も娘作りになる。同じ銀杏返《いちょうがえ》し同じ袷《あわせ》小袖《こそで》に帯もやや似寄った友禅|縮緬《ちりめん》、黒の絹張りの傘《かさ》もそろいの色であった。緋《ひ》の蹴出《けだ》しに裾《すそ》端折《はしお》って二人が庭に降りた時には、きらつく天気に映って俄《にわ》かにそこら明るくなった。
 久しぶりでおとよも曇りのない笑いを見せながら、なお何となし控え目に内輪なるは、いささか気が咎《とが》むるゆえであろう。
 籠《かご》を出た鳥の二人は道々何を見ても面白そうだ。道ばたの家に天竺牡丹《てんじくぼたん》がある、立ち留って見る。霧島が咲いてる、立ち留って見る。西洋草花がある、また立ち留って見る。お千代は苦も荷もなく暢気《のんき》だ。
「おとよさん、これ見たえま、おとよさんてば、このきれいな花見たえま」
 お千代は花さえ見れば、そこに立ち留って面白がる。そうしてはおとよさん見たえまを繰り返す。元が暢気《のんき》な生れで、まだ苦労ということを味わわないお千代は、おとよをせっかくここまで連れて来ながら、おとよの胸の中は、なかなか道ばたの花などを立ち留って見てるような暢気でないことまでは思《おも》い遣《や》れない。お千代は年は一つ上だけれど、恋を語るにはまだまだ子供だ。
 おとよはしょうことなしにお千代のあとについて無意識に、まあ綺麗《きれい》なことまあ綺麗なことといいつつ、撥《ばつ》を合せている。蝙蝠傘《こうもりがさ》を斜《はす》に肩にして二人は遊んでるのか歩いてるのか判《わか》らぬように歩いてる。おとよはもうもどかしくてならないのだ。
 おとよは家を出るまでは出るのが嬉《うれ》しく、家を出てしばらくは出たのが嬉しかったが、今は省作を思うよりほかに何のことも頭にない。お千代の暢気につれて、心にもない事をいい、面白く感ぜぬ事にも作り笑いして、うわの空に歩いている。おとよの心にはただ省作が見えるばかりだ、天竺牡丹《てんじくぼたん》も霧島も西洋草花も何もかもありゃしない。
「省さんは先へいったのかしら、それともまだであとから来るのかしら」
 こう思うのも心のうちだけで、うかりとしているお千代には言うてみようもなく、時々目をそらしてあとを見るけれど、それらしい人も見えない。ぶらぶら歩けばかえって体はだるい。
「おとよさん、もうわたし少しくたぶれたわ。そこらで一休みしましょうか」
 お千代の暢気は果てしがない。おとよの心は一足も早く妙泉寺へいってみたいのだ。
「でもお千代さんここは姫島のはずれですから、家《いえ》の子《こ》はすぐですよ。妙泉寺で待ち合わせるはずでしたねい」
 こういわれてようやくの事いくらか気がついてか、
「それじゃ少し急いでゆきましょう」
 家の子村の妙泉寺はこの界隈《かいわい》に名高き寺ながら、今は仁王門《におうもん》と本堂のみに、昔のおもかげを残して境内は塵《ちり》を払う人もない。ことに本堂は屋根の中ほど脱落して屋根地の竹が見えてる。二人が門へはいった時、省作はまだ二人の来たのも気づかず、しきりに本堂の周囲を見廻《みまわ》し堂の様子を眺めておった。省作はもとより建築の事などに、それほどの知識があるのではないけれど、一種の趣味を持っている男だけに、一見してこの本堂の建築様式が、他に異なっているに心づき、思わず念がはいって見ておったのである。
「こんな立派な建築を雨晒《あまざら》しにして置くはひどいなあ、近郷に人のない証拠だ
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