一つを取り直しさえすれば、おまえの運はもちろん、家の面目も潰《つぶ》さずに済むというものだ。省作とてお前がなければまたえい所へも養子に行けよう。万方《ばんぼう》都合よくなるではないか。ここをな、おとよとくと聞き別けてくれ、理の解《わか》らぬお前でないのだから」
父のことばがやさしくなって、おとよのつらさはいよいよせまる。おとよも言いたいことが胸先につかえている。自分と省作との関係を一口に淫奔《いたずら》といわれるは実に口惜《くや》しい。さりとて両親の前に恋を語るような蓮葉《はすっぱ》はおとよには死ぬともできない。
「おとッつさんのおっしゃるのは一々ごもっともで、重々わたしが悪うございますが、おとッつさんどうぞお情けに親不孝な子を一人《ひとり》捨ててください」
おとよはもう意地も我慢《がまん》も尽きてしまい、声を立てて泣き倒れた。気の弱い母は、
「そんならお前のすきにするがえいや」
「ウム立派に剛情を張りとおせ。そりゃつらいところもあろう、けれども両親が理を分けての親切、少しは考えようもありそうなもんだ、理も非もなくどこまでも、我儘《わがまま》をとおそうという料簡《りょうけん》か、よしそんなら親の方にもまた料簡がある」
こういい放って父は足音荒く起《た》って出てしまう。無論縁談は止めになった。
省作というものがなくて、おとよがただ斎藤の縁談を避けたのみならば、片意地な父もそうまで片意地を言うまいが、人の目から見れば、どうしてもおとよが、好きな我儘をとおした事になるから、後の治まりがむずかしい。父はその後も幾度か義理づめ理屈づめでおとよを泣かせる。殺してしまうと騒いだのも一度や二度でなかった。たださえ剛情に片意地な人であるに、この事ばかりは自分の言う所が理義明白いささかも無理がないと思うのに、これが少しも通らぬのだから、一筋に無念でならぬのだ。これほど明白に判《わか》り切った事をおとよが勝手《かって》我儘《わがまま》な私心《わたくしごころ》一つで飽くまでも親の意に逆らうと思いつめてるからどうしても勘弁ができない。ただ何といってもわが子であるから仕方がなく結末がつかないばかりである。
おとよは心はどこまでも強固であれど、父に対する態度はまたどこまでも柔和《にゅうわ》だ。ただ、
「わたしが悪いのですからどうぞ見捨てて……」
とばかり言ってる。悪いと知ったら、なぜ親のことばを用いぬといえば泣き伏してしまう。
「斎藤の縁談を断わったのはお前の意《こころ》を通したのだから、今度は相当の縁があったら父の意に従えと言うのだ」
それをおとよはどうしても、ようございますといわないから、父の言《い》い状《じょう》が少しも立たない。それが無念で堪《たま》らぬのだ。片意地ではない、家のためだとはいうけれど、疳《かん》がつのってきては何もかもない、我意を通したい一路に落ちてしまう。怒《おこ》って呆《あき》れて諦《あきら》めてしまえばよいが、片意地な人はいくら怒っても諦めて初志を捨てない。元来父はおとよを愛していたのだから、今でもおとよをかわいそうと思わないことはないけれど、ちょっと片意地に陥るとわが子も何もなくなる、それで通常は決して無情酷薄な父ではないのである。
おとよはだれの目にも判るほどやつれて、この幾日というもの、晴れ晴れした声も花やかな笑いもほとんどおとよに見られなくなった。兄夫婦も母も見ていられなくなった。兄は大抵の事は気にせぬ男だけれどそれでもある時、
「おとッつさんのように、そう執念深くおとよを憎むのは一体|解《わか》らない。死んでもえいと思うくらいなら、おとよの料簡《りょうけん》に任してもえいでしょう」
こういうと父は、
「うむ、そんな事いってさんざん淫奔《いたずら》をさせろ」
すぐそういうのだからどうしようもない。ことにお千代は極端に同情し母にも口説《くど》き自分の夫にも口説きしてひそかに慰藉《いしゃ》の法を講じた。自ら進んで省作との間に文通も取り次ぎ、時には二人を逢《あ》わせる工夫もしてやった。
おとよはどんな悲しい事があっても、つらい事があっても、省作の便《たよ》りを見、まれにも省作に逢うこともあれば、悲しいもつらいも、心の底から消え去るのだから、よそ目に見るほど泣いてばかりはいない。例の仕事|上手《じょうず》で何をしても人の二人前働いている。
父は依然として朝飯夕飯のたびに、あんなやつを家へ置いては、世間へ外聞が悪い、早くどこかへ奉公にでもやってしまえという。母は気の弱い人だから、心におとよをかわいそうと思いながら、夫のいうことばに表立って逆らうことはできない。
「おとよを奉公にやれといったって、おとよの替わりなら並みの女二人頼まねじゃ間に合わない」
いさくさなしの兄はただそういったなり、そりゃいけないとも
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