いうもんだど。おッ母さんはただあの事が深田へ知れては、お前も居づらいはずだと思うたに、今の話ではお前の方から厭になったというのだね。それではおまえどこが厭で深田にいられない、深田の家のどいうところが気に入らないかえ。おつねさんだって初めからお互いに知り合ってる間柄だし、おつねさんが厭《いや》なわけはあるまい。その年をしてただわけもなく厭になったなどというのは、それは全く我儘《わがまま》というものだ。少しは考えてもみろ」
省作はだまってうつむいている。省作は全く何がなし厭になったが事実で、ここがこうと明瞭《めいりょう》に意識した点はない。深田の家に別に気に入らないというところがあるのではない。つまるところ省作の頭には、おとよの事が深く深く染《し》みこんでいるから、わけもなく深田に気乗りがしない。それにこの頃おとよと隣との関係も話のきまりが着いて、いよいよおとよも他《ほか》に関係のない人となってみると、省作はなにもかにもばからしくなって、俄《にわ》かに思いついたごとく深田にいるのが厭になってしまった。しかしそれをそうと打《ぶ》っつけに母にも言えないから、母に問い詰められてうまく返答ができない。口下手《くちべた》な省作にはもちろん間に合わせことばは出ないから、黙ってしまった。母も省作のおちつかぬはおとよゆえと承知はしているが、わざとその点を避けて遠攻めをやってる。省作がおつねになずみさえすれば、おとよの事は自然忘れるであろうと思いこんで、母はただ省作を深田の方へやって置きたいのだ。
「お前も知ってのとおり深田はおら家《うち》などよりか身上《しんしょう》もずっとよいし、それで旧家ではあるし、おつねさんだって、あのとおり十人並み以上な娘じゃないか。女親が少しむずかしやだという評判だけど、そのむずかしいという人がたいへんお前を気に入ってたっての懇望《こんもう》でできた縁談だもの、いられるもいられないもないはずだ。人はみんな省作さんは仕合せだ仕合せだと言ってる、何が不足で厭になったというのかい。我儘いうもほどがある、親の苦労も知らないで……。お前は深田にいさえすれば仕合せなのだ。おッ母さんまで安心ができるのだに。どういう気かいお前は、いつまでこの年寄に苦労をかける気か」
母は自分で思いをつめて鼻をつまらせた。省作は子供の時から、随分母に苦労をかけたのである。省作が永く眼《め》を煩《わずら》った時などには、母は不動尊に塩物断《しおものだ》ちの心願《しんがん》までして心配したのだ。ことに父なきあとの一人《ひとり》の母、それだから省作はもう母にかけてはばかに気が弱い。のみならず省作は天性あまり強く我《が》を張る質《たち》でない。今母にこう言いつめられると、それでは自分が少し無理かしらと思うような男であるのだ。
「おッ母さんに苦労ばかりさせて済まないです。なるほどわたしの我儘に違いないでしょう、けれどもおッ母さん、わたしの仕合せ不仕合せは、深田にいるいないに関係はないでしょう。あの家にいても、面白くなくいては、やっぱり不仕合せですからねイ。またよしあそこを出たにしろ、別に面白く暮す工夫《くふう》がつけば、仕合せは同じでありませんか。それでもあの家にいさえすればわたしの仕合せ、おッ母さんもそれで安心だと思うなら考えなおしてみてもえいけれど、もうこうなっちゃっては仕方がなかありませんか」
母は少し省作を睨《にら》むように見て、
「別に面白く暮す工夫て、お前どんな工夫があるかえ。お前心得違いをしてはならないよ。深田にいさえすればどうもこうも心配はいらないじゃないか。厭《いや》と思うのも心のとりよう一つじゃねいか。それでお前は今日《きょう》どういって出てきました」
「別にむずかしいこと言やしません。家へいってちょっと持ってくるものがあるからって、あやつにそう言って来たまでです」
「そうか、そんなら仔細《しさい》はないじゃないか。おらまたお前が追い出されて来ましたというから、物言いでもしてきた事と思ったのだ。そんなら仔細はない、今夜にも帰ってくろ。お前の心さえとりなおせば向うではきっと仔細はないのだよ。なあ省作、今お前に戻ってこられるとそっちこちに面倒が多い事は、お前も重々《じゅうじゅう》承知してるじゃねいか」
省作はまただまってる。母もしばらく口をあかない。省作はようやく口重く、
「おッ母さんがそれほど言うなら、とにかく明日《あす》は帰ってみようけれど、なんだかわたしの気が変になって、厭な心持ちでいたんだから、それで向うでも少し気まずくなったわけだとすると、わたしは心をとりなおしたにしろ、向うで心をなおしてくんねば、しようがないでしょう」
「そりゃおまえ、そんな事はないよ。もともと懇望されていったお前だもの、お前がその気になりさえすりゃ、わけなしだ
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