春の潮
伊藤左千夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)戻《もど》って

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)深田|贔屓《びいき》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)一|小廬《しょうろ》を[#「一|小廬《しょうろ》を」は底本では「一|小慮《しょうろ》を」]
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      一

 隣の家から嫁の荷物が運び返されて三日目だ。省作は養子にいった家を出てのっそり戻《もど》ってきた。婚礼をしてまだ三月と十日ばかりにしかならない。省作も何となし気が咎《とが》めてか、浮かない顔をして、わが家の門をくぐったのである。
 家の人たちは山林の下刈りにいったとかで、母が一人《ひとり》大きな家に留守居していた。日あたりのよい奥のえん側に、居睡《いねむ》りもしないで一心にほぐしものをやっていられる。省作は表口からは上がらないで、内庭からすぐに母のいるえん先へまわった。
「おッ母《か》さん、追い出されてきました」
 省作は笑いながらそういって、えん側へ上がる。母は手の物を置いて、眼鏡越《めがねご》しに省作の顔を視《み》つめながら、
「そらまあ……」
 驚いた母はすぐにあとのことばが出ぬらしい。省作はかえって、母に逢《あ》ったら元気づいた。これで見ると、省作も出てくるまでには、いくばくの煩悶《はんもん》をしたらしい。
「おッ母さん、着物はどこです、わたしの着物は」
 省作は立ったまま座敷の中をうろうろ歩いてる。
「おれが今見てあげるけど、お前なにか着替も持って来なかったかい」
「そうさ、また男が風呂敷包《ふろしきづつ》みなんか持って歩けますかい」
「困ったなあ」
 省作は出してもらった着物を引っ掛け、兵児帯《へこおび》のぐるぐる巻きで、そこへそのまま寝転《ねころ》ぶ。母は省作の脱いだやつを衣紋竹《えもんだけ》にかける。
「おッ母さん、茶でも入れべい。とんだことした、菓子買ってくればよかった」
「お前、茶どころではないよ」
と言いながら母は省作の近くに坐《すわ》る。
「お前まあよく話して聞かせろま、どうやって出てきたのさ。お前にこにこ笑いなどして、ほんとに笑いごっちゃねいじゃねいか」
 母に叱《しか》られて省作もねころんではいられない。
「おッ母さんに心配かけてすまねいけど、おッ母さん、とてもしようがねんですよ。あんだっていやにあてこすりばかり言って、つまらん事にも目口《めくち》を立てて小言《こごと》を言うんです。近頃はあいつまでが時々いやなそぶりをするんです。わたしもう癪《しゃく》に障《さわ》っちゃったから」
「困ったなあ、だれが一番悪くあたるかい。おつねも何とか言うのかい」
「女親です、女親がそりゃひどいことを言うんです。つねのやつは何とも口には言わないけれど、この頃失敬なふうをすることがあるんです。おッ母さん、わたしもう何がなんでもいやだ」
「おッ母さんもね、内々《ないない》心配していただよ。ひどいことを言うって、どんなこと言うのかい。それで男親は悪い顔もしないかい」
「どんなことって、ばかばかしいこってす。おとっさんの方は別に悪くもしないです」
「ウムそれではひどいこっちはおとよさんの事かい、ウム」
「はあ」
「ほんとに困った人だよ。実はお前がよくないんだ。それでは全く知れっちまたんだな。おッ母さんはそればかり心配でなんなかっただ。どうせいつか知れずにはいないけど、少しなずんでから知れてくれればどうにか治まりがつくべいと思ってたに、今知れてみると向うで厭気《いやけ》がさすのも無理はない」
 母はこういってしばらく口を閉じ、深く考えつつ溜息《ためいき》をつく。暢気《のんき》そうに、笑い顔している省作をつくづくと視《み》つめて、老いの眼に心痛の色が溢《あふ》れるのである。やがてまた思いに堪《た》えないふうに、
「お前はそんな暢気な顔をしていて、この年寄の心配を知らないのか」
 そういわれて省作は俄《にわ》かに居ずまいを直した。そうして、
「おッ母さん、わたしだってそんなに暢気でいやしませんよ。年寄にそう心配さしちゃすまないですが、実はおッ母さん、あの家はむこうで置いてくれてもわたしの方でいやなんです。なんのかんの言ったって、わたしがいる気で少し気をつければ、わけはないですけど、なんだか知らんが、わたしの方で厭《いや》になっちまったんでさ。それだからおッ母さん心配しないでください」
 これは省作の今の心の事実であるが、省作の考えでは、こういったら母の心配をいくらかなだめられると思うたのである。ところがそう聞いて母の顔はいよいよむずかしくなった。老いの眼はもう涙に潤《うるお》ってる。母はずっと省作にすり寄って、
「省作、そりゃおまえほんとかい。それではお前、あんまり我儘《わがまま》と
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