こんな事になるならば、おとよはより早く、省作と一緒になる目的をもって清六の家を去ればよかった。そうすれば省作も人の養子などにいく必要もなく、無垢《むく》な少女おつねを泣かせずにも済んだのだ。この解《わか》り切った事を、そうさせないのが今の社会である。社会というものは意外《おもいのほか》ばかなことをやっている。自分がその拘束に苦しみ切っていながら、依然として他を拘束しつつある。
四
土屋の家では、省作に対するおとよの噂《うわさ》も、いつのまにか消えたので大いに安心していたところ、今度省作が深田から離縁されて、それも元はおとよとの関係からであると評判され、二人《ふたり》の噂は再び近村|界隈《かいわい》の話し草になったので、家じゅう顔合せて弱ってる。おとよの父は評判のむずかしい人であるから、この頃は朝から苦虫《にがむし》を食いつぶしたような顔をしている。おとよの母に対しては、これからは、あのはまのあまなんぞ寄せつけてはならんぞとどなった。
おとよはそれらの事を見ぬふり聞かぬふりで平気を装うているけれど、内心の動揺は一通りでない。省作がいよいよ深田を出てしまったと、初めて聞いた夜はほとんど眠らなかった。
思慮に富めるおとよは早くも分別してしまった。自分にはとても省さんを諦《あきら》められない。諦められないことは知れていながら、余儀ないはめになって諦めようとしたものの駄目《だめ》であったのだから、もうどうしたって諦められはしない。今が思案の定《き》め時《どき》だ。ここで覚悟をきめてしまわねば、またどんな事になろうも知れない。省さんの心も大抵知れてる、深田にいないところで省さんの心も大抵知れてる。おとよはひとりでにっこり笑って、きっぱり自分だけの料簡《りょうけん》を定《き》めて省作に手紙を送ったのである。
省作はもとより異存のありようがない、返事は簡単であった。
深田にいられないのもおとよさんゆえだ。家に帰って活《い》き返ったのもおとよさんゆえだ。もう毛のさきほども自分に迷いはない。命の総《すべ》てをおとよさんに任せる。
こういう場合に意志の交換だけで、日を送っていられるくらいならば、交換したことばは偽りに相違ない。抑《おさ》えられた火が再び燃えたった時は、勢い前に倍するのが常だ。
そのきさらぎの望月《もちづき》の頃に死にたいとだれかの歌がある。これは十一日の晩の、しかも月の幽《かす》かな夜ふけである。おとよはわが家の裏庭の倉の庇《ひさし》に洗濯をやっている。
こんな夜ふけになぜ洗濯をするかというに、風呂《ふろ》の流し水は何かのわけで、洗い物がよく落ちる、それに新たに湯を沸かす手数と、薪《まき》の倹約とができるので、田舎《いなか》のたまかな家ではよくやる事だ。この夜おとよは下心あって自分から風呂もたててしまいの湯の洗濯にかこつけ、省作を待つのである。
おとよが家の大体をいうと、北を表に県道を前にした屋敷構えである。南の裏庭広く、物置きや板倉が縦《たて》に母屋《おもや》に続いて、短冊形《たんざくがた》に長めな地《じ》なりだ。裏の行きとまりに低い珊瑚樹《さんごじゅ》の生垣《いけがき》、中ほどに形ばかりの枝折戸《しおりど》、枝折戸の外は三尺ばかりの流れに一枚板の小橋を渡して広い田圃《たんぼ》を見晴らすのである。左右の隣家は椎森《しいもり》の中に萱《かや》屋根《やね》が見える。九時過ぎにはもう起きてるものも少なく、まことに静かに穏やかな夜だ、月は隣家の低い森の上に傾いて、倉も物置も庇から上にばかり月の光がさしている。倉の軒に迫って繁《しげ》れる梅の樹《き》も、上半の梢《こずえ》にばかり月の光を受けている。
おとよは今その倉の庇、梅の根もとに洗濯をしている。うっすら明るい梅の下に真白《まっしろ》い顔の女が二つの白い手を動かしつつ、ぽちゃぽちゃ水の音をさせて洗い物をしているのである。盛りを過ぎた梅の花も、かおりは今が盛りらしい。白い手の動くにつれて梅のかおりも漂いを打つかと思われる、よそ目に見るとも胸おどりしそうなこの風情《ふぜい》を、わが恋人のそれと目に留った時、どんな思いするかは、他人の想像しうる限りでない。
おとよはもう待つ人のくる刻限と思うので、しばしば洗濯の手を止めては枝折戸の外へ気を配る。洗濯の音は必ず外まで聞えるはずであるから、省作がそこまでくれば躊躇《ちゅうちょ》するわけはない。忍びよる人の足音をも聞かんと耳を澄ませば、夜はようやく更《ふ》けていよいよ静かだ。
表通りで夜番《よばん》の拍子木《ひょうしぎ》が聞える。隣村《となりむら》らしい犬の遠ぼえも聞える。おとよはもはやほとんど洗濯の手を止め、一応|母屋《おもや》の様子にも心を配った。母屋の方では家その物まで眠っているごとく全くの寝静まりとなっ
前へ
次へ
全22ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
伊藤 左千夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング