た。おとよはもう洗い物には手が着かない。起《た》ってうろうろする。月の様子を見て梅のかおりに気づいたか、
「おおえいかおり」
そっと一こと言って、枝折戸《しおりど》の外を窺《うかが》う。外には草を踏む音もせぬ。おとよはわが胸の動悸《どうき》をまで聞きとめた。九十九里の波の遠音は、こういう静かな夜にも、どうーどうーどうーどうーと多くの人の睡《ねむ》りをゆすりつつ鳴るのである。さすがにおとよは落ちつきかね、われ知らず溜息《ためいき》をつく。
「おとよさん」
一こえきわめて幽《かす》かながら紛るべくもあらぬその人である。同時に枝折戸は押された。省作は俄《にわ》かに寒けだってわなわなする。おとよも同じように身顫《みぶる》いが出る。這般《しゃはん》の消息は解し得る人の推諒《すいりょう》に任せる。
「寒いことねい」
「待ったでしょう」
おとよはそっと枝折戸に鍵《かぎ》をさし、物の陰を縫うてその恋人を用意の位置に誘うた。
おとよは省作に別れてちょうど三月になる。三月の間は長いとも短いともいえる、悲しく苦しく不安の思いで過ごさば、わずか百日に足らぬ月日も随分長かった思いがしよう。二人にとってのこの三月は、変化多き世の中にもちょっと例の少ない並ならぬ三月であった。
身も心も一つと思いあった二人が、全くの他人となり、しかも互いに諦《あきら》められずにいながら、長く他人にならんと思いつつ暮した三月である。
わが命はわが心一つで殺そうと思えば、たしかに殺すことができる。わが恋はわが心一つで決して殺すことはできない。わが心で殺し得られない恋を強《し》いて殺そうとかかって遂《つい》に殺し得られなかった三月である。
しかしながら三月の間は長く感じたところで数は知れている。人の夫とわが夫との相違は数をもっていえない隔たりである。相思の恋人を余儀なく人の夫にして近くに見ておったという悲惨な経過をとった人が、ようやく春の恵みに逢《お》うて、新しき生命を授けられ、梅花月光の契りを再びする事になったのはおとよの今宵《こよい》だ。感きわまって泣くくらいのことではない。
おとよはただもう泣くばかりである。恋人の膝《ひざ》にしがみついたまま泣いて泣いて泣くのである。おとよは省作の膝《ひざ》に、省作はおとよの肩に互いに頭をつけ合って一時間のその余も泣き合っていた。
もとより灯《あかり》のある場合ではない。頭はあげても顔見合すこともできず、ただ手をとり合うているばかりである。
「省さん、わたしは嬉《うれ》しい」
ようよう一こと言ったが、おとよはまた泣き伏すのである。
「省さん、あとから手紙で申し上げますから、今夜は思うさま泣かしてください」
しどろもどろにおとよは声を呑《の》むのである。省作はとうとう一語も言い得ない。
悲しくつらく玉の緒も断えんばかりに危《あやう》かりし悲惨を免れて僅《わず》かに安全の地に、なつかしい人に出逢《でお》うた心持ちであろう。限りなき嬉しさの胸に溢《あふ》れると等しく、過去の悲惨と烈《はげ》しき対照を起こし、悲喜の感情相混交して激越をきわむれば、だれでも泣くよりほかはなかろう。
相思の情を遂げたとか恋の満足を得たとかいう意味の恋はそもそも恋の浅薄なるものである。恋の悲しみを知らぬ人には恋の味は話せない。
泣いて泣いて泣きつくして別れた二人には、またとても言い表すことのできない嬉しさを分ち得たのである。
五
翌晩省作からおとよの許《もと》に手紙がとどいた。
「前略お互いに知れきった思いを今さら話し合う必要もないはずですが、何だかわたしはただおとよさんの手紙を早く見たくてならない、わたしの方からも一刻も早く申し上げたいと存じて筆を持っても、何から書いてよいか順序が立たないのです。
昨夜は実に意外でした、どうせしみじみと話のできる場合ではないですけれど、少しは話もしたかったし、それにわたしはおとよさんを悦《よろこ》ばせる話も持っていたのです、溜《たま》りに溜った思いが一時に溢れたゆえか、ただおどおどして咽《む》せて胸のうちはむちゃくちゃになって、何の話もできなく、せっかくおとよさんを悦ばせようと思ってた話さえ、思いださずにしまったは、自分ながら実に意外でした、しかしながら胸いっぱいにつかえて苦しくて堪《たま》らなかった思いを、二人で泣いて一度に泣き流したのですからあとの愉快さは筆にはつくせません、これはおとよさんも同じことでしょう。昨夜おとよさんに別れて帰るさの愉快は、まるで体が宙を舞って流れるような思いでした。今でもまだ体がふわふわ浮いてるような思いでおります。わたしのような仕合せなものはないと思うと嬉しくて嬉しくて堪りません。
これから先どういうふうにして二人が一緒になるかの相談はいずれまた逢《あ》っ
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